【けいおん!続編】 水の螺旋 (第五章) ・下 +エピローグ
唯は目を覚ました。直後、自分がこの世界でも泣いているのだと分かった。目に溜まってた涙で目がかすんで、周りがまったく見えなかったからだ。
現実でも涙を流していることを悟った瞬間、彼女は我慢できなくなり、ここでも大声で泣き出した。
「どうしたの、唯?」
と云って、姫子が駆け寄ってきた。唯は姫子の首にすがりついて、泣き叫んだ。
「凜くんが…、凜くんがぁ……!!」
「えっ、彼がどうしたの?」
姫子の問いに唯は答えたかったが、泣き声で言葉が出なかった。実際のところ、姫子は唯にとって恋敵になってしまうのだが、そんなのは今となってはどうでもいいことだ。
しばらくは唯の鳴き声ばかりが辺りに響いていたが、それが少し落ち着くのを見計らって、石山がこう切り出した。
「君たちはそろそろ帰った方がいい」
唯、憂、和、姫子の四名は、一斉に石山の方を見た。
「賭里須くんはじきに目を覚ますだろうが、彼はもう君たちのことは覚えていないだろう。いや、知らないと云った方がいいかな。私のことに関してもかなり忘れているだろうが、私ひとりくらいなら問題ないだろう。関わる人間は少ない方が、都合がいい。私ひとりなら、街なかで急に倒れて、介抱するためにここに連れてきたというふうに偽っても、納得してもらえそうだしね」
まだ凜は目を覚まさないのであった。それは、目を覚ますためには、いったん凜本人の世界へ魂が帰還する必要があり、彼の魂が今、唯の世界から自分の世界へ向かっているためであった。
凜に関して起こった事を直接見た人間は唯しかいないのだが、石山はすでにそのことを予想していたらしい。この人の推理力には恐ろしいものがあると、和は思った。
石山の言葉を受けて、四人は病院を後にした。唯はまだ半ば呆然とした状態で、姫子の介助を受けながら歩いている。
「ありがとう。彼のこと助けてくれたのよね」
歩きながら、姫子は唯に云った。
「うん。でもごめんね。姫子ちゃんの望む形にはできなかったけど…」
姫子の望む形、それは唯自身の望む形でもあった。つまり、凜が自分たちとの関係を保った状態で戻ってくれることが、好ましい形であった。しかし、実際には目覚めた凜には唯も姫子も覚えていない、というよりむしろまったく知らないふうになってしまうのだ。
「いいのよ。そんなこと」
具体的な事情は何も知らない状態でありながら、姫子はそう云った。包容力のある一言に、唯は安心した。
そこへ、彼女たちの前方から澪・律・ムギ・梓の四名が、やって来るのが見えた。ライブが終わってすぐ、駆けつけてくれたようだ。
「あっ、みんなー!」
憂が四人に向かって手を振ると、向こうでも律が「おーい!」と返した。
別々の行動をとっていた仲間たちが、再度合流した。
「ライブの方はどうだったの?」
和が澪たちに訊いた。
「大成功だったよ。今まで、こんなに盛り上がったことはなかったんじゃないか、って思うぐらい盛り上がったし。…そっちの方はどうだったんだ?」
澪の問いに和が答える。
「こっちもどうやら上手くいったみたいね」
和は唯の方を向いて、さらに云った。
「唯、遅くなったけど、お疲れさま。そして、お帰りなさい」
和に続いて、他のメンバーもひとりひとり「お帰りなさい」と云った。
唯は姫子の介助の手を離れ、ひとり“きをつけ”の姿勢をとった。そして、仲間たちひとりひとりの顔を見た後、まだ涙で輝く目を細め、満面の笑みでこう返した。
「ただいま」
おそらくは、凜も今頃、目を覚ましている頃だろう。
--------------------------
(エピローグ)
--------------------------
1
前期のカリキュラムが終わり、夏休みを経て、季節は秋。大学でも後期の授業が始まった。
K大理学研究棟の学生実習室に和はいた。今日は2年後期の学生実習の初回である。
初回の授業なので、今回は作業的なものはないだろう。先生が実習の進め方や実験に対しての心構えなんかを簡単に説明して、授業は終わり、というのが大まかな流れになるだろう。あとはあるとすれば、新しく配属になるTA (ティーチング・アシスタント) の紹介ぐらいだろうか。
授業が始まるまでまだ少し時間がある。和は学生用の実験台のそばに置かれた丸椅子に座りながら、“あれから”のことを思い出していた。
あの出来事から、和は石山教授の研究室には行くことがなかった。というのも、石山が突然、辞任したのだ。自分の興味から始めた研究によって、世の中を危険に晒すはめになったことに対して責任を感じたためか、或いは自分の教え子であるひとりの学生に不幸 (実際のところそう云えるかは別だが) が起こってしまったことに対する罪滅ぼしか、理由はよく分からない。とにかく、彼は大学を辞めたのだ。講義などの関係から、前期の間は教壇に立たざるを得なかったが、その間研究などは一切行わず、期間が終われば大学を去ることになった。研究室に関しては、暫定的に助教の先生が後を引き継いだが、来年度までにどこかから別の教授を引き連れてくるという流れになっているらしい。
つまりは、石山が研究を行わなくなったので、彼に雇われていた和自身も研究室に行く必要性がなくなった、というわけだ。因みに、あれから凜にも会っていない。彼が今何をしているのか、大学にいるのかさえ知らなかった。どうしているのか、少し気掛かりである。
そんなことを思い返しているうちに、授業が始まった。今回の授業は思った通り、ガイダンスであった。ひととおりの説明の後、先生は今回実習を手伝ってくれるTAを紹介した。
TAは3人だったが、その中のひとりを見て、和は驚いた。やがて、その彼が先生に促され自己紹介を始めた。
「賭里須 凜です。よろしくお願いします」
そう云って彼は、はにかんだ笑顔を見せながら、不器用そうなおじぎをする。以前の彼とは雰囲気が少し違った。過去に背負ったものを捨て去り、新たな気持ちでいるような、そんな初々しさを感じた。
(そうか、彼はもう、新しい人生を歩み始めているのね)
和はそう思い、何だか嬉しくなった。
年上で自分たちをサポートする立場でありながら、子供のようなおぼこさを感じさせる凜を、和は微笑みながら見つめていた。
彼はもう自分のことを知らないはずだ。だから自分も今後、あえて彼には深く関わらない方がいいであろうと思えた。少なくとも、凜にはあの出来事は忘れたままでいて欲しい。親友が恋した男が、これからも幸せな人生を歩んでくれるように。
2
とある総合病院の精神病棟の一室。窓際で、ベッドに座りながら、カーテンの引かれた窓を眺め、ボーッとたたずむやさぐれた男がいた。
男は背後に気配を感じ、振り返った。そこには花束を持って立っている石山の姿があった。
「や、やあ、君か…」
男は力なくそう云った。
この男こそ、以前は二葉 繁と呼ばれていた男である。いや、今でも戸籍上の名前はそうなっている。だが、本人はおそらくそれを知覚できていない。
作品名:【けいおん!続編】 水の螺旋 (第五章) ・下 +エピローグ 作家名:竹中 友一