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断食月

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 はるか上空で、隼は一際つよく羽ばたいた。
 彼は自分が月を背負っている事を知っている。地上にいる敵には、彼の姿は見えにくいだろう。
 初めて出会った敵だった。
 彼は敵の影が自分の持つ分身と同じ種類の物である事を理解している。相手の力が自分を上回っている事も、人型をしているとはいえ、その能力が人間とは全く比較にならない事も判っている。しかし、人が見捨てたこの商館は、守らねばならない彼の領土だった。
 羽を震わせ、彼は庭園を隅々まで見渡した。
 いた。
崩れかけた回廊のアーチに半ば身を隠して、侵入者が血を振り払っている。
 骨の嘴が大きく開き、風を裂いて飛ぶ彼の背で六つの突起を蠢かした。それは快哉を叫んだようでもある。
 ゆるく伸びる弦の音が地表に流れ、そっと吹いた風に水溜まりの月がきらめく。
 彼は喉を引き締め、翼を前傾させる。
 一呼吸し………時速三〇〇キロの急降下が始まった。
 硬度を増した空気の壁を、鋭い嘴が、次いで突き出した逞しい脚爪が破る。息は出来ない。その間もない。硬く張った翼が鳴りはためく。見開いた目の中心には敵の急所、金色をした頭部が映り、その像は急速に拡大する。分身が薄笑いを浮かべながら氷の弾丸を装填した。
 侵入者が、こちらを見上げた。
 瞬間の停滞もない。全弾を発射する。
 侵入者の拳が氷弾を砕き、その脚が地表を離れかける。
 骨の鳥が彼らにだけ聞える奇怪な声をあげて、けたたましく戦意を表明する。
 そして、カイロの庭園が凍りついた。
庭全体を氷が覆った。タイルも、大理石も、水溜りもアーチも、回廊も塔の土台も侵入者の脚も、分厚い氷が覆い尽くし、気温は一気に下降して、侵入者の動きを鈍らせる。
 隼の両翼と尾羽が広がって急ブレーキをかけた。この敵には近づかないほうがいい。
 乾燥し荒廃した庭園は、往時の賑わいを取り戻したかのように美しい。ゆるやかに『廃墟』の流れる薄闇の下、張り詰めた氷の表面で大気中の水分が凝固して霜が降りたように白く輝き、怪物達の目を惑わせる。
 敵を釘づけにした隼が、その上空を通過しながら氷弾を射出する。
 息の根を止めるまで。
その意思を誇示するように執拗に、円錐の根元まで突き刺さる攻撃が侵入者の体に降りそそぐ。人型の肉体と白い影、四本の腕が身を守ろうと振りかざされるが、それを弾き飛ばし埋め尽くし、機銃掃射は止まらない。
 やがて侵入者の全身に氷の針が突き立ち、影もろともに霜を置いた氷晶が覆った。
 体温を奪い、水分を凍らせ、脆くなった肉体を割り砕く。
 ずっと昔から繰り返してきた作業を今夜こそ完結させるため、隼は飛ぶ。
 侵入者の頭上に、巨大な氷の塊が出現した。
 重さは二トンほどもあろうか、断食月の夜の熱気に負けて溶け出した水が、鏡のような面を濡らしながら鋭角に尖ったその下端から伝い落ちてくる。
 隼の爪が反射を受けてギラリと光った。
 隣家の楽曲が哀切さを増し、その歌声が悲しげにすすり泣くなか、空中の氷塊、地上の氷塊、その片方には生きた肉体を捕らえた二つの巨塊が重力に任せてぶつかり合う、一瞬前。
 二重体の猛禽が、二つの声で天高く勝ち鬨を上げた。
 殷々たるその響きの消えぬ間に、衝撃が駆け抜ける。
 二つの氷塊は、轟音を上げて粉々に砕けた。
 破裂した透明な破片が散弾のようにはじける。廃園を爆心とした振動が周囲一帯の地を揺らす。地響きに音楽が止み、あちこちから悲鳴が上がる。
 燦然と光輝を振り撒いて、無数の小さな断片がアーチや塔に食い込み、破壊の凄まじさを示す黒々と深い穴を穿った。
 二つの氷塊は完全に崩壊した。
 ついに。
彼はゆったりと宙を舞った。数夜にわたる攻防戦を制したかに思われた。
 違った。
 チリチリと涼やかな音を立てて、ダイアモンドダストに似た砕片がカイロの夜に降り落ちる。その爆発の中心で、全身を血に染め、引き絞った弓型に体を屈めた男が、今まさに顔をあげようとしていた。
 逞しい両肩や首、背中、腰にかけてが、大輪の赤い花が開いたように大きく爆ぜ割れている。夜目にも白く背骨がのぞき、べっとりと血に濡れた金髪が頭蓋に貼りついて、さらに両脇腹には破れた皮と内臓が垂れ下がっている。
それは白い影の主、そいつは本当に不死身だった。
 中空に鋭く輪を描きながら、彼は我知らず見守っていた。
 ぬらぬらと光る傷口に、見る間にピンク色の肉が盛り上がってくる。ひくひくと動くそれが、意思でも持っているかのように背骨をやさしく包み込み、ひとつ可憐にふるえると、白くやわらかな新しい皮膚がそっと覆い隠した。はみ出て地面を這っていた腸が自ら帰路をたどって空洞に収まり、二重になって翻っていた腹膜と腹筋、それから皮膚が腹腔を閉じた。
 そしてそいつが首をもたげる。
 流れ出た血の赤に塗りこめられながら、完璧に復元された肉体で。
 奥の奥まで光のさした目は空中で見返してきた時と少しも変わらず、獣じみて淡褐色だった。その唇は楽しげに笑っている。断食明けの人々と、まったく同じように楽しげだった。
 しきりに降り注ぐ月光の中、二重体の猛禽と不死身の怪物は出会って以来、はじめてまともに相対した。
 外界の喧騒は悲鳴の連鎖に変わっている。半時間前の静けさは跡形もなく、ただ変わらないのは睨みあう両者の関係だけだった。
死んでいない。
 隼の脳は単純だ。死んでいなければ攻撃を繰り返して殺すまでのこと、この敵には逃げ出す様子はない。だが彼の脳のどこか、太古の昔から祖先の記憶を受け継いできた、本能と呼ばれる場所の近くで、夜歩く不死身の怪物に対する、古い恐怖が疼いていた。多分それは、数千年前にこの世から消え果てた夜行性の種族に由来するのだろう。
 弾丸を再装填する。攻撃再開、その時を狙って、侵入者が彼の脳に死んでも消えない新しい恐怖を植えつけようと待っていた。
 バリ、という音が、庭園に湧いた。
低く重く硬いその音は不死身の怪物の笑うアーチの下から始まり、塀際の隅が続いた。次いで擦れて軋む耳障りな音が、ほとんど同時に庭を揺らす。
 金髪の怪物が、身をそよがせた。
 年月と砂嵐に耐え、辛うじて残っていた石材やタイルの床が、その上を覆った氷と共に軋み、何か生き物の腹が呼吸をするのに似て、波打つ。ほとんど軽やかといえるほど、廃園いっぱいに張り詰めた氷が身をくねらせ、その度ごとにあの軋む音が氷上を走った。音の収束する中心点では復活を果たした怪物が、隼を見つめながら体を揺すっている。
 ギリ、ギリ、と、大きく二つ、不快なその音が続き、怪物が一気に身を起こした。
作品名:断食月 作家名:塚原