再会のキス
「…………へたくそ」
長々と貪られた後、真っ先に言った。紫苑は頬を這う蛇を一層赤く染め、恥ずかしがるように瞼を伏せたが、しかしきっぱりと言い放った。
「再会のキスだ」
「――何だって?」
「再会のキスだ」と紫苑は重ねて言った。「きみに会ったらしてやるって決めていた。あの日の仕返しだ」
「ちょっと待て紫苑、話が見えない」ネズミは顎を引き、きっと紫苑を睨みつけた。「本当に、あんたが俺を連れ戻したのか?」
「勝手にいなくなったんだから、勝手に連れ戻してもいいだろ。お互い様だ」
「俺は勝手にいなくなったんじゃない」
「いなくなったじゃないか」
「ちゃんとさよならを言ったさ」
「さよならを言えばいなくなってもいいっていうのか。きみが、それを言うのか」
さよならのキスなんて二度とするな、とこのお坊ちゃんに言ったのはどこの誰だったか――よく覚えているけれど、ネズミは忘れてしまったことにした。人間は忘れなければ生きていけないのだ。忘れたくとも忘れられずに苦悩する人の何と多いことか。
「ぼくが……」紫苑は額に手を当てて呻いた。「ぼくが……いったいどんな思いで……」
ああ頼むそれ以上言うな、こっちまでひきずられてしまいそうになる。
殊更大きな声で、なるほどよく分かった、と慌てて紫苑を止めた。分かりすぎて頭痛がしてきたくらいだった。俺に会いたがってくれるのは構わないがやり方というものもあろう、本来の軌道に戻すべく努めて無感情に言う。「あんたは、俺を責めるためだけに自分の部下と神経ガスを使える人間だったわけだ。大した成長ぶりだな。見違えたよ」
「違う、ネズミ」紫苑はがらりと声音を変えて懇願するように、「彼らはぼくの部下じゃない。ともに助け合う大切な仲間で、だからこそきみに会いたいというぼくの希望を、真剣に聞き入れてくれたんだ。それにあれは神経ガスなんかじゃなかった」
手術にも使われるただの麻酔ガスだ、という主張はどこかズレていた。そんな危険なものきみに使うわけないだろう、と誓われてもはいそうですねと納得はできかねた。もし必要以上の効果をもたらしたのだとしたらきっと心身が弱っていたんだ、と言われるに至っては腸が煮えくり返ったが、優しく髪を撫でられながらでは、どう頑張ってもうまく怒りを表明できそうになかった。しかも相手はぽろぽろと、玉のような涙を流していた。涙を見られるのを恥じてもいない。
ネズミは観念し、ああそうかよ、とため息をついた。
「んで、俺が何の嘘をついたって?」
「……再会を、誓ったのに、」
――誓いのキス。さよならのキスじゃなくて、再会を誓うキスだった。
矯正施設に侵入する前には両者とも、二度とあの部屋に戻れないのは分かっていた。あの部屋を離れて一緒に暮らすという選択肢もネズミにはなかった。自分たちが出会ったのが運命なら、離別もまた運命だった。しかし今生の別れにはしないと誓った。いつか絶対に会いに来る、いや、会おうとせずとも会ってしまうはずだと信じていた。
そんな日がいつか来ると思えばたわいのない日々も愉快だった。腹を下して眠れなかったり、泥にまみれて彷徨う夜も、いつかこの話をあいつにするのかもしれないと考えると笑えた。『いつか』を先延ばしすればいつまでだって楽しめたのだ。
「もっとずっと巧いキスだったろう、あれは」
俺がしたのは、別れ際にふさわしい激しさと優しさを持ってただろう。涙の痕に点々と口づけると、紫苑は小さな子供みたいにしゃくりあげた。随分と図体のでかい子供ですこと。
「ちっとも、会いに来て、くれなくて」
「『ちっとも』って……あれからまだ三年しか経ってないぞ」
「言っただろう。きみがいない世界には意味がない。きみがいないと、一日一日がとても長いんだ――ネズミ」
美しい銀髪がふわり、と風を孕んだ。紫苑の中から湧きだす感情のほとばしりに呼応したかのようだった。思わず、何だ、と素直に聞き返してしまう。どの道、紫苑を茶化して煙に巻くことなど、いくらしようとしてもさせてもらえないのだ。同じだけの真剣さを引きずり出されて向かい合うしかない。
「ずっとここにいてくれだなんて言わない。きみをぼくの傍に縛り付けるようなことなんてしたくない。でも」
涙の幕が再び、赤い瞳を潤ませる。
「お願いだ。たまには帰ってきて、元気な姿を見せてくれ」
それが不可能ならせめて、連絡をくれ。どこかできみが生きているってぼくに教えてくれ。そんなんじゃ全然満たされないけど、音信不通の日々には耐えられない。
「……紫苑」
無理にでも区切りをつけないと離れたくなくなるに決まっている、ぐずぐずと深みにはまって抜けられなくなる、だからあえて距離を取ったのに、このお坊ちゃんは平気でそれを詰めてくる。仲間と称する他人一束とけったいな化学物質を持ち出してまで捕まえて。
どうして俺なんかに死ぬほど執着するのか、尋ねたところで無駄なのだろう。何故きみは盲目に僕を信じる、と問われて答えられないのと一緒だ。上手く言葉にしようとしても、三年では到底足りない――足りなかった。
好きなものは好きなのだ。どうしようもない。
ネズミはガラスのように輝く髪に指を差し入れ、
「どれくらいの頻度がお好みですか、陛下?」
紫苑は目を丸くすると、花が咲くみたいにパッと笑顔になった。「いっそ毎日でも」
――何だそれ、バカにしてるのか。縛り付けたくはないんじゃなかったのか。あんたはこの世に存在しているだけでじゅうぶん俺を縛るのに、まだ足りないって言うのか。どこまで欲張りなんだ。
ふざけた回答を紡ぐ唇に、二度目の再会のキスを見舞ってやった。