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【シンジャジュ】我儘な子供

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 誰かが叫んでいる。
 泣きながらこっちに向かって怒鳴っている。
 目と鼻の先に倒れている男が、鮮血に染まった指先を震わせて、千切れるように涙を落としながらこっちまで必死に手を伸ばそうとしていた。
 誰かは分からないけれど、その人はとても優しかったような気がした。
 その優しかった人は一生懸命呼んで床を這い、血溜まりの中で手を伸ばして喚いいるのに、決して自分の所まで届く事は無くて、とても哀しい気持ちになる。
 彼らの元に戻りたくて自分も手を伸ばしてみると、視界の下方に子供みたいな小さな手が浮かんでいるのが見えた。それが自分の手なのだと気付くまでには、更に幾ばくかの時間が必要だった。うえぇぇぇん……えぇぇぇぇん……と先程から耐える事無く聞こえている子供の泣き声も、その時になってようやく己の叫び声なのだと思い知る事が出来た。
「っ!」
 ビクッと全身が痙攣して、ジュダルは唐突の目覚めを迎える。
 見覚えの無い景色に驚いてガバリと身を起こし掛けたが、途端に側頭部を殴られたような痛みがこめかみに生じて低く呻き、敷布の上にドサリと崩れ落ちた。
 ズキズキと疼く頭を抑えて室内を見渡せば、近くの椅子に腰掛けて悠然と此方を見下ろしている人物に気付いてギリリと鼻梁に皺を寄せる。意識を失う直前、目の前の男に醜態を晒したばかりか、まんまと捕らえられてしまった事を思い出した。油断していたとは言え、一生の不覚だ。
「チックショ……後でぶっ殺してやるからな!」
「ほざく元気があるなら平気ですね。ここは私の部屋ですよ」
 シンドバッドの眷属は、ピクリとも表情を変えない鉄面皮で静かにそう言った。金属器使いならまだしも、たかが眷属如きの分際で、しかも外見上はどちらかと言うと小柄で頼りない体躯をしているのに、此方に向けられる視線の冷ややかさには本能がゾクリと畏怖を覚える。こいつは思ったよりも危険な奴なのかも知れない。少なくともバルバッドでの戦闘以来、不安定になっている心身では、まともに遊んでやることは出来そうにも無かった。
 それよりも今は頭が痛くて仕方がなかった。ズキズキズキズキ、こめかみの血管の中に性質の悪い蟲でも居るんじゃないかと思う。訳の分からない夢を見て気分は最悪だし、畜生、と悪態が込み上げてくる。
 ジュダルは頭を抱え込んだまま、小さくポツリと尋ねた。
「……俺、何か言ってたかよ」
「そうですね、苦しそうに魘されていましたよ。殺さないで、離して、嫌だ、助けて、と何度も繰り返して」
「っ……!」
 サラリと告げられた言葉に、ギリギリと奥歯を噛み締める。
 やっぱりあの夢はヤバい。本気でヤバい。あれの所為で自分はこんなにも弱くなってしまった。
 シンドバッドの部下なんかに捕まっただけでも失態極まりないのに、早く目の前の胸糞悪い奴をブチ殺して本国に帰らなくてはいけないのに、全身がガタガタと震えて全く使い物にならない。
 あんな夢、もう二度と見たくなんか無い。逃避のようにそう感じるけれど、だが頭の片隅では決して忘れてはいけない思い出なのだと叫ぶ声も聞こえるのが厄介だった。どちらに従えば良いのか分からなくて、いつも途方に暮れるしか無いのだ。正反対の意見がぶつかり合い、思考を乱し、感情が奔流する。正体不明の不安が溜まりに溜まって、爆発寸前にまで膨れ上がっている。このままでは相反する思考に耐え切れずに脳味噌が決壊する。心の方が先にダメになってしまう。気が、狂ってしまう……!
「ふざけんな……何だよ……何なんだよこれはァ!」
「大丈夫です。私が楽にしてあげると言ったでしょう」
 ギッと寝台に乗り上げたジャーファルは、頭を抱えて蹲っているジュダルの腕を剥ぎ取ると、無理やり手首を掴んでドサリと敷布の上に押し倒した。
 いきなり組み伏せられたのに、ジュダルの紅い瞳が驚愕に見開く。
「な……に、すんだよっ!」
 懸命に抗おうとする少年を腕の中に閉じ込め、ジャーファルは体術を駆使して四肢を封じて強引に自由を奪い取った。魔法使いの彼は思った通り直接的な技に疎いらしい。易々と捕縛出来たのは良かったが、しかしそれが益々ジュダルの精神を追いつめてしまったようだった。
「やめろォ!」
 感情の昂ぶりと共にブワリと膨れ上がったルフが放たれ、手首を押さえているジャーファルの腕や官服の生地をザシュッ、ザシュッ、と空気の矢のような物が走り過ぎていった。
「っ……」
 腕や首筋に生じた鋭痛にジャーファルは眉を潜める。思わず拘束している手を離してしまったが、恐慌状態に陥っているジュダルは自由を取り戻しても止まらない。不安定なジュダルのルフは室内の壁や調度品を無差別に切り裂いた。
 凶暴な鎌鼬のようなそれにチッ、と舌打ちしたジャーファルは、サイドテーブルに用意していた小瓶を素早く取り上げる。
「離しやがれ、このヘンタイッ!」
 浴びせ掛けられる罵詈雑言を無視し、ジャーファルは強引にジュダルの顎を鷲掴んだ。横に逸れた顔を正面に引き戻すと、性急に顔を寄せていく。
「んんっ……!」
 強引に唇を重ね合わせれば、反射的にぎゅっと唇を引き絞る様子に苛立ちを覚える。掴んでいた顎を砕く勢いでぐっと指に力を込めると、痛みに呻いたジュダルは堪らずに口を開けた。その隙を逃さずに深く口付けて、液状の薬物をぬるりと流し込む。苦しそうな呻きを上げる少年の頼りない喉仏を指の腹で擦りあげてしまえば、彼は味も分からないままゴクンと強制的に飲み下した。しかし己の意思では無い嚥下だった故か、薬の一部が器官に流れてしまったらしく、ゲホゲホッと盛大に噎せ返った。
「ぅ……っ、く」
「大丈夫ですか?」
 苦しそうに噎せている少年の背をさすってやるも、眦に涙を滲ませて咳き込む彼はさぞかし辛そうだった。マギとは言えど魔法使いを生業としている故に身体は常人よりも脆弱で、繊細だ。手加減すれば此方がやられてしまうとは言え、子供をいたぶっているようで余り良い気はしない。
 少しだけ申し訳ない気持ちになり、濡れた唇を指先で拭いてやると、彼は紅い瞳を怒りに含ませて睨み付けてきた。
「っ……さわんな!」
 バシッと手を払いのけられ、ゴシゴシと己の口許を手の甲で拭う。潤んだ瞳で精一杯威嚇を向け、悔しそうに唇に犬歯を突き立てている。
「てめぇ……イカれてんのかよッ」
 頬に朱が差しているのは、どうやら憤怒の為というよりも口付けられた事に狼狽しているようだった。思ったよりも初々しい反応に自然と笑みが零れ落ちる。
「口付けは初めてでしたか?」
 涼しい声音で問い掛けると、カッと少年の頬が沸騰した。
「あんま調子乗ってっと、今すぐブチ殺すぜ?」
「出来るものなら」
 今の彼にどうこうする力は無いのだと確信していた。高い視点から挑発の意味を込めて横柄に言い放つと、ジュダルは鋭い双眸に憎悪を漲らせて野生の獣の如く睨み付けてくる。
「クソ……が……っ」
 だが、所詮は手負いの獣だった。万全の状態でなければ鋭い牙も爪も怖くは無い。
 悔しそうに吐き捨てたのを最後にジュダルの顎がふっと仰のき、敷布の上にドッと背中から崩れ落ちた。そのまま昏睡するように意識を失ってしまう。無理やり飲み込ませた睡眠導入剤が良く効いてくれたらしい。