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【シンジャジュ】我儘な子供

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 ぐるぐると纏まらない思考の渦巻く頭を抱えて自室へと戻ってきたジャーファルは、扉に手を掛ける前から微かな違和感を覚えた。
「……?」
 何だろうと思いドアを開け放つと、すぐに苦しそうな呻き声が耳朶に飛び込んできた。
「んっ……ぅ、うぅっ……」
 ハッと険しい表情になったジャーファルは早足でベッドに向かった。
 天蓋の梁から垂れている布を捲ると、仰向けに横たわっているジュダルが胸を掻き毟っているような体勢で魘されていた。鼻梁には深い皺が刻まれ、頬は青白く、引き攣れた嗚咽の所為で満足に酸素を取り込めないのか、乾いた唇を必死に喘がせている。
「ジュダル……?」
 呼びかけてみても覚醒する気配は無い。即効性の睡眠薬は持続性こそ低いけれど、弱っている身体には効きすぎる程に効いているのか。深淵の底まで落ちた意識は声を掛ける程度ではとても呼び戻せそうに無かった。
 今までは過去の夢を見ても自力で眠りから覚めて恐怖を断ち切る事が出来たのだろうが、ジャーファルの与えた薬によって睡眠状態を強要されている今、嘗てないほど深くトラウマの記憶と向き合わされているのかも知れない。
 眠らせる事で夢の続きを見させて、そこから何かしら情報を得ようと思い薬を与えたのが仇になったのか。
「ぅ……あ……ぁああっ!」
 ガッと喉を仰け反らせ、頬を敷布にこすり付けるようにしてジュダルは悲鳴を上げ続ける。
 半乱狂になって魘されているジュダルは、明らかに危険な容態へと達しかけていた。このままでは精神に大きな後遺症を来してしまうかも知れない。
(いけない……っ!)
 咄嗟にジュダルの上体を抱き起したジャーファルは、肩を掴んで慎重に揺さぶった。
「しっかりして下さい、ジュダル」
「っ……俺に、さわんな……ァ」
 覚醒を促そうとしても、夢の中の怖い相手とジャーファルを混同しているらしいジュダルは、懸命にジャーファルの胸を突っぱねて抗う様子を見せた。差し伸べた手を払いのけ、腕の中から逃げ出そうと手足をばたつかせる。叫びながら暴れるものだから自らの歯で唇を切ってしまったらしく、口端にうっすらと鮮血が滲んでいた。これ以上動き回れば、誤って舌を噛みかねない。
(仕方がない)
 ジャーファルは咄嗟に己の指先をジュダルの唇に押し当てた。反射的に口を開けた所を問答無用で押し込み、舌を噛まないようにと猿轡の代わりにした。ガッと皮膚にジュダルの犬歯が食い込み、鋭い痛みが脳を突き抜けたが、慣れた感覚に眉ひとつ歪める事は無い。
「うぅぅ……ぐ、っ」
 指を噛ませた事で幾分落ち着いたのか、狂ったように暴れていたジュダルは少しずつ静かになっていった。
 荒く胸を隆起させていた息遣いがようやく収束したころ、ジュダルに噛ませていた指をそうっと引き抜く。皮膚を食い破られた指先は鮮血に濡れていたが、痛みは特に感じなかった。唾液と血で汚れたジュダルの口元を拭いてやるついでに、汗ばんだ前髪をそっと撫でてやる。
「……ぅ」
 状態が落ち着いても、ジュダルはかたく閉ざした瞼から大粒の涙を滲ませ、弱々しく力なく首を振って嫌だ、触るなと拒絶を繰り返した。
「いやだ……アイツがいい……アイツじゃなきゃ、嫌なん、だ……」
 ガタガタと可哀想なくらいに身体を痙攣させて、震える声音で哀願する。無理やり頭の中身を暴かれて洗脳されようとするのを、必死に抵抗していようようだった。過去に彼が経験してきたと思われる現象を目の当たりにしたジャーファルは、壮絶な光景に只々息を飲む事しかできない。
 腕の中に助けを求めて泣き叫んでいる者がいるのに、励ましてやることもできないのだ。こんなに苦しんでいるのに。
「たす、け……シンド、バッド……」
「――――」
 ジュダルの唇から零れ落ちた名前に、ジャーファルは目を見開いた。
 憔悴しきった少年が、昏睡状態の末に心の底から搾り出すようにして懇願を求めた相手は、自らの主でもあるシンだった。
(そうか……だから、シンの部屋に)
 シンドリアに来た本当の目的は、やはりシンにあったのだ。
 ジュダルの中に微かに残っている本来の彼は、長年に渡って組織と戦い続けているシンに淡い憧憬を抱いているのかも知れない。度重なる妨害や圧力にも屈する事無く、闇にあらがう強い心を持って戦い続けているシンの近くに居れば、自分も少しずつ変わるかも知れないと無意識のうちに助けを求めているのかも知れなかった。
 だが、ジュダルの裏に潜む組織は、シンとの接触を快く思わないだろう。煌帝国内で再開を果たしたとしても、会話や行動はすべて監視されているに違いない。だから敢えて主の居ない隙にシンの部屋を訪れ、微かに残ったシンの気配に包まれて、少しでも心を慰めたかったのではないだろうか。
 ジュダルの内に棲む本来の彼が、シンの強さを求めている。
 そう考えると、執拗なまでのシンへの執着も甚く納得する事が出来た。
「本当に、好きなんですね……」
 少年のひたむきな思慕に触れて、ジャーファルはそっと瞳を伏せた。
 俺と組んで世界せーふく目指そうぜ! と冗談めかして言っていた言葉は、彼にとっては何よりも本物の事実だった。時折ふらりとシンの前に現れては「オーイ、バカ殿。あっそぼーぜっ!」と子犬のようにじゃれついてき、警戒するシンに邪険に扱われてもめげずにケラケラと笑っていたその裏側では、血の涙を流して「助けて」と叫び続けていたのかも知れない。
「…………」
 トラウマの記憶ばかりを永遠ループしているかのように、ジュダルの見ている夢は酷く辛そうだった。
(こんなに汗まみれになって)
 精神的な苦痛は、時として肉体的な損傷よりも大きく心に響いてしまう。
 自分では何もしてやれないけれど、せめて流れた汗が冷えて身体を冷やしてしまわぬよう拭いてやろう。そう思いつき、ジャーファルは自室に備え付けの洗面スペースに向かった。
 大量に発汗していたから、水を飲ませなければならない。
 飲料用の水をコップに用意した後、棚の中から清潔な布巾と大きめの桶を取り出した。
 洗面台にセットすると、蛇口を捻って水を出し、桶の中に溜めていく。シャアアアと水のぶるかる音を聞きながら、ジャーファルは眉間を抑えて溜息を吐いた。
 落ち着け、と思う。
 敵対している相手に、何を同情しているのだ。
 ジュダルをこのまま放置していれば、遅かれ早かれ確実にシンの邪魔になる筈だった。今、此処で処理をしてしまえば、楽に危険の芽を取り除く事が出来る。都合の良い事に彼はひどく弱っているのだし、目を覚ます前に息の根を止めてしまえば良い。過去にも同じように、数えきれないくらい命を奪ってきただろう。今更迷う必要は無い。逃げられてしまう前に早く手を下さなければいけないと分かっているのに、何故実行に移すのをためらってしまうのだろう。
 ――――あの人を、助けてあげたい……。
 ふと鼓膜にアラジンの声が蘇る。
 その一言は、まるで鶴の一声のようにジャーファルの意識を革新した。
(助けたい……私が? ジュダルを……?)
 違う。そうじゃない。