血ノ涙
カスミが率いている兵達は、実によく耐えていた。眼下では圧倒的な強さを誇る白狼軍相手に、味方が必死で戦っている。それでも殺意も恐怖も悟られずに木々の間で潜んでいなければならない。忍として鍛え上げてきたカスミ自身は苦にならないが、他の者はろくな訓練を積んでいなかった。
そもそも、トランから新同盟軍の城に着いてすぐさまフリックとシュウに頼まれ、その場で選んだ兵たちなのだ。普段ならば訓練の様子まで観察してから適性を判断しているのに、そんな時間はなかった。けれど戦時という特殊さ、そしてルカ・ブライトという存在が士気を高めたのか、ただ整列させた中でも個性を放つ者がいて、それが選んだ決め手だった。
目の前の戦いが激しさを増している。耐えかねて逃げ出す者がいてもおかしくない中、兵達はただひたすら沈黙を貫いていた。
「ったく、音に聞えた白狼軍がこれほどとはね」
極限の緊張の中、カスミ以外にも平然と声をあげる者がいた。
「ローレライさん」
「こっち着いてそうそうこれじゃ、あんたもツイてないね」
「もともとトラン共和国からの援軍として来ましたから。でも、ローレライさんも参加していたのには驚きました」
「グレッグミンスターで誘われたんだ。リオウは良い男だからね。特に目の光が良い。似ているよ」
誰に、とは言わず、ローレライは笑う。カスミも微笑んだその時、カスミ達が埋伏している丘の下で展開していたフリックの部隊から狼煙が上がった。カスミはローレライを見、互いに頷きあい、そして兵達に向かって手を挙げた。一斉に音もなく立ち上がる。
「私達の目的はただひとつ。敵の混乱を誘発すること」
カスミの言葉に返事はないが、全員、意思疎通は出来ているようだった。
「いざ、まいります」
カスミは武器を構えた。
騎馬隊を動かしながら、フリックは機を狙っていた。
キバの誘いに乗ったルカを全軍で取り囲んだ。フリックは退路にあたる所に自軍を展開し、ちょうどルカのいる白狼軍本隊だけを切り離したような形にした。本隊に続こうとする敵軍に対応するためルカに背を向ける格好になったが、キバ、ビクトール、エイダ、そしてリオウ率いる親衛隊が引き付けていた。さらにテレーズの部隊からジーンの紋章が放たれ、痛撃を与えた。さすがに潰走するようなことにはならない。が、最強の本隊と距離が開いてしまった敵軍は勢いが減っていた。
フリックは騎馬隊の陣形を楔型に整えて敵の歩兵部隊に切り込んだ。分断し、左右に広がって散る敵を二隊に分けてそれぞれ囲う。そこにギルバートの部隊が突っ込んできて、敵を追い詰めた。機会はまだか、そう思った時、轟音にも似た風の音が平原を襲う。
ここだ。フリックは左手を挙げて、後方に合図を送る。狼煙を上げる用意をさせていた。突風が吹いて煙はすぐになびいてしまったが、カスミならば見逃さないはずだった。
ルックがなにかやる。そうわかった時、シュウと相談した。なにをするのかわからないが、必ず戦の流れが変わると踏んで、カスミに兵を選ばせた。よく耐えることが出来、身のこなしが軽く、ひとつの命令だけで動ける者。かつてのトラン解放戦争時の忍のような役割を担う部隊が欲しかった。ルックの動きに合わせて敵を混乱させ、撤退を促させることが目的だった。
狼煙を掻き消した突風は止み、不自然な静けさが戦場を包む。
「フ、フリック隊長」
「……これは」
フリックは動揺する副官に指示を与えようとしたが、出来なかった。大地を這うように柔らかな風が吹き、その次の瞬間には人も木もなぎ倒すような勢いの風が襲ってきた。なんとか馬上で耐える。頬を飛んできた枝のような物で切られた。風はたった一度猛烈に吹いただけで、すぐに静けさを取り戻した。フリックは隣の副官を見たが、馬から振り落とされていた。
混乱はすざましいものがあった。風によって人がなぎ倒される、そういった状況だった。ローレライ達は合図と共に埋伏していた丘を駆け下りていた所で、木々の間にいたことが功を奏し、突風に晒されることはなかった。
敵も味方もなにが起きたのか確認しようとしている。ローレライの役割は、この騒ぎの中で敵を倒すことだった。突如として沸いた自分たちの部隊に、敵はさらに混乱する。カスミが先頭で突っ込んだ。ローレライは向かってくる人間にだけ鎌を振るい、ただひたすら敵の将に向かって突き進む。状況がわかっていない中で将がいなくなれば、敗走のきっかけとなるはずだった。
白狼軍の旗、馬上で手を挙げている者がいる。ローレライは狙いを定め、鎌を投げた。回転し、速度を増して、首を飛ばした。敵全体に動揺が走り、一拍置いた後、潰走し始めた。地に倒れた者の剣を拾い、敵陣を切り進みながら、ローレライは吹っ飛ばした鎌を回収する。先の戦争後、愛用していた弓は手放して新たに使い始めた。想像以上に手に馴染んだ。それなのに今回ばかりは荒い使い方をしたな、と、苦笑した。