彗クロ 3
3-6
和やか、と呼べないでもない空気を切り裂いたのは、砂漠の熱気に不似合いな、軽快な風切り音だった。
瞬時にアゲイトが銃を引き抜き、一拍遅れてザオオオトカゲが耳障りに嘶いた。
フローリアンとルークを乗せた一頭が、大きく首をしならせ身震いする。暴れる尾の付け根が赤く濡れているのを見て、レグルはさっと青ざめた。――トカゲの臀部に矢が突き刺さっているのだ。
恐慌の伝染に慄く手綱を捌きながら、アゲイトが鋭く叫んだ。
「野盗だ――ルーク!」
「わ、わ、わあ――っ!」
ストン、トン、トトン。断続的に矢がトカゲたちの足元に突き刺さり、嘶きが連発する。フローリアンの技量では暴走を御しきれない。
「フローリアン、前!」
慌てふためくフローリアンの腕に縋りつくように、ルークが小さな身体で手綱を支えた。急発進を促されたザオオオトカゲは、ぎこちなくも駆け出した。アゲイトもまた自騎を走らせ、音素銃で後方を牽制しながら後に続いた。
攻撃の手は緩められることがない。レグルは横に身を乗り出して背後を見返ったが、広漠とした金色の大地に射手の姿は見当たらなかった。
「少なくとも二人はいる」
アゲイトが低く呟いた。
「なんでわかんだよっ」
「最近出回ってる極地用のクロスボウだよ。連射性は大したもんじゃない」
「徒党組んでビンボー人狙ってんじゃねっつの!」
「子供を養う余裕があるって思われたかな。――ルーク、そっちは駄目だ!」
前方に目を配った瞬間、アゲイトが急激に声を荒げた。レグルも視線を返した。
ルークたちのトカゲはほとんど全力疾走状態で、かなりの距離を先行していた。さらに前方は岩石地帯になっているようだ。背丈を遥かに凌駕する大岩がごろごろと転がっている。あれなら十分な遮蔽物になるだろう。実際、トカゲの針路はルークたちの意図した操縦というより、トカゲが本能的に閉所へ避難しようとしているように見えた。
しかし、アゲイトの呟きは今までにない緊迫に満ちていた。
「まずい……」
どうしてだと、詰問する余裕はなかった。
ルークたちを乗せたトカゲが、吸い込まれるように岩陰に消えた。……心臓がぎゅっと絞られるような、いやな予感がした。
――キュシュァァァァッ!! 悲愴に切迫した嘶きが、砂漠の空を谺した。
***
――待ち伏せをされていたのだ。
盛大に尻をついて砂埃に巻かれながら、フローリアンは正しく状況を読み取った。
下が砂地だったおかげで、トカゲの背から振り落とされたダメージは最小で済んだ。日陰の砂のひんやりとした感触がむしろありがたいくらいだった。厄介なのは、気管と免疫系への悪意なき攻撃だ。再びの矢襲に驚いたトカゲのヤツが散々暴れてくれやがったせいで、周囲はもうもうたる有様だ。目を開くどころか、まともに息を吸うのも難しい。
近寄ってくる気配がある。それも複数。笑い含みの、下卑た男たちの声。
「は、上手くいったもんだ」
「『馬』ァ逃げちまったぞ、もったいねー」
「所詮クズ馬だ、惜しくもねぇさ」
「いや、ありゃあ、つがいだ。もう一頭を捕まえりゃ戻ってくるかもしれん」
いいことを聞いたな、と妙に冷静に思考が回った。アゲイトが上手くやってくれれば、逃げたトカゲも戻ってくる可能性があるわけだ。
男たちの会話から推定できる人数は、最低でも三人。最初から、後方の射手と示し合わせて、物陰にトカゲを追い込むのが目的だったわけだ。『馬』が暴走していたとはいえ、まんまと相手の思惑通りに釣られてしまったのは、確実にフローリアンの落ち度が大きい。ここを無事に切り抜けられた暁には、レグルの罵倒は免れまい。
(「無事に」とか「られたら」とか、なに考えてんだボク)
なんたる弱気だ。天真爛漫、前向きの斜め上、いつだって大人をくって、割を食う人々を尻目に飄々とオイシイところを浚っていく。それでこそフローリアン。三年かけて、曲がりなりにも築き上げた偶像。『導師イオン』ではない、ただ一人の、フローリアン。
胸の底にいつの間にか巣食っていた感触は、否定すべき感情であるはずだった。
けれど、暗くて柔らかいところからとろとろと生まれ出る「どうでもいいや」という囁きは、いつだって抗いがたい魅力で誘惑するのだ。
「――フローリアン、実戦経験は?」
物思いをぶち抜く力強さで、低く抑えた問いかけが投げられた。
フローリアンは長い睫をまたたいた。濁った視界が、ほんの少しだけクリアになる。
防塵フードの庇をつき合わせて、至近距離に、鮮やかな緑色の両眼があった。
……ルーク・フォン・ファブレという人物と、フローリアンは面識がある。
どちからといえば幼い記憶の部類に属し、全体像は不鮮明だ。格別に印象深い思い出ということもなく、脳の容量を占拠するほど重さも長さもない。
だが、なぜか、忘れがたい人物だったのだ。
近年になって、教会ですれ違ったり遠目に見かけたりということも、実は何度かあった。というか、その時の印象があまり芳しくなかったせいで、ただでさえ不明瞭な記憶を余計に遠ざけてしまった感がなきにしもあらず……だったのだが。
『その『ルーク様』とやらぁ、ほんまにウチの知っとるルー君なんかいねぇ……』
(当たってるかもしれない、ディンディン)
あの店主は意外と侮れない。
だって、この、色素しか共通点のなさそうな、フローリアンよりずっと目線の低い子供の瞳のほうが――緊迫に揺れる弱さと強さ、その芯に潜むやさしさの中に、かつて出会った面影をより強く感じるのだから。
フローリアンはニッと口元を引き上げた。できるだけ、強気に、挑むように。
「アニスと毎日のよーにケンカして、全戦無敗だけど?」
嘘は言っていない。毎回勝敗がつかないのは事実だ。
ルークは虚をつかれたようにぱちくりと目を丸めて、それからふっと破顔した。――ああ、この顔、この雰囲気だ。脳裏に縮こまっていた思い出が、色鮮やかに花開いていくようだった。
なぜ忘れがたく感じていたのか、あっさりとわかってしまった。単純に、彼のことが好きだったのだ。小さい頃に遊んでくれた、気さくでちょっと元ヤン入ったヘタレな兄ちゃん。種の性質上、レプリカが持ち得るはずのない「幼少期」を支える、大切な思い出の欠片だ。
フローリアンの返答は、きっとルークの期待にそぐうものではなかったはずだ。微笑の内側に余裕は見えない。それでも、フローリアンの腕を勇気づけるように掴む手には、強さを……現実を克服しようとする強さを思わずにはいられない。
「ボウガンが一人、曲剣が五人だ。戦えるか?」
「対人訓練は受けてるよ。筋がいいってさ。たぶん、死なない程度には粘れると思うけど」
「うん。……自分の命のことだけ、考えて」
……それは、「殺すことを躊躇するな」という意味だろうか?
ずいぶんとお優しいことばのような気がする。悠長、というべきか。
――命を狙ってくるオリジナルと、凶暴化したモンスターに、どれほどの違いがあるというのだろう?
そうは思ったが、馬鹿正直に思ったまま答えることはなんとなく憚られた。そして、その猶予も残されていなかった。