彗クロ 3
3-9
ソイルの大樹の背丈にも勝る高さを垂直に落下しておいて、怪我ひとつなく済んだことに関しては賞賛に値するのでは、と己を慰めるレグルである。伊達にチーグルたちとの木登り競争で何度となく足を踏み外してはいない。墜落の浮遊感から、とっさに標的を真下の地面に定めて『力』を発動させ、落下の衝撃を殺した反射神経ときたら、ある意味、神懸りと言っても差し支えないだろう。
だからと言って、直前にやらかした大ポカが帳消しにされるわけでは、無論ないが。
遥か頭上の薄日の天蓋の向こうから声(主にフローリアンの馬鹿笑い)と気配がしなくなったのを確かめて、しばし。レグルをどんよりと頭を抱えて、自ら作り出したクレーターの真ん中でしゃがみこんだ。
「……ぁぁあああやっべぇ……ルーク怒ってるよアレ……ぜってー怒ってるわ……どーしよ……」
なにせ、怒るのはもっぱらレグルの役目なのだ。怒っている相手を挑発したことならいくらでもあるが、なだめたり謝ったりなんてことは、チーグルの長老にしかしたことがない。加えて、相手はルークだ。なにぶん前例のないことなので、対処の見当もつかない。いやそもそもルークが怒っているところなど見たことがないのだから、まだ万が一怒っていないという可能性も……いやしかしあれだけの失態に重ねてあの言い方……おとなしい人間が怒ると手がつけられなくなるというが……ああ、何か不快なことを思い出しそうだ、やめておこう。
「――あなた、だれ?」
鈴を転がすような声、だ。
無意識に体が動いた。警戒の構えをとるのだけは、もはや身に馴染んだ動作だ。……警戒から先の対処が、いまひとつ伴わないのが問題だが。
振り返った先に、人影があった。
遺跡の底は青黒く霞み、広がりを把握しづらいが、しかし陽光の恩恵がまったく届かないわけでもない。埃っぽい光芒がうっすらと諧調を生み出し、周囲をほの暗くも幻想的に浮かび上がらせる。目が慣れるのを待つまでもなく、視界に困るというほどでもなかった。
人影は思いのほか小柄だった。むしろ、華奢だ。髪は長い。服は時代錯誤の意匠で、これまた引きずるように長い。
女――いや、女の子だ。年の頃は、おそらくレグルより一つ二つ上というぐらい。さすがに目鼻立ちまでは見て取れないが、声音やわずかなしぐさにも無防備なあどけなさが宿っていた。深窓の令嬢とでもいうのか、村ではあまり見ないタイプの、どこか儚げな印象が珍しい。「フォークより重いものを持ったことがない」とか、本気で言いそうだ。少なくとも、野盗に脅されたかたらといって木剣で殴りつけてくることはないだろう。
張り詰めていた気が抜けて、レグルは構えを解いた。
「なんだ、オンナか……。人に名前を訊くなら、そっちから名乗れよな」
「なぜ?」
「な、なぜって、えっと……そ、そういうもんだろ、世の中ってのは」
改めて問われると難しい。苦しく返してから、それが礼儀だからだ、という常套句に思い当たったが、さすがにどの口で言えた話だということになりそうなので訂正はしなかった。
薄日を背負う少女は、世間知らずを絵に描いたように、小さく首を傾げた。明るい色の髪がさらりと零れて、淡い光に縁取られる。
「そうなの……困ったわ」
「なんだよ」
「なまえ……」
「――おまえ、まさか」
ひどい既視感に頭痛を覚え、レグルは額を抑えてため息をついた。ルーク絡みの例の『記憶』ではない。れっきとした、自分自身の経験に基づく直感だ。
「……あー、名前な。出来れば番号じゃないやつ。誰かに声かけられる時とか、なんかこう、他のやつと区別するような単語で呼ばれたりしねぇ?」
「カーラネミ」
存外あっさりといらえがあった。まあそれはそうだろう。自治区・保護区という囲いの中に収容される時点で、名を持たないレプリカたちには一人一人、何がしかの記号が与えられるものだ。となると、名前を訊かれて即座に答えられない少女自身の学習能力に若干の問題がありそうだ。
「よりによってカーラかよ、縁起わりぃの……」
「名乗ったわ」
「あーはいはい。おれはレグル。レグル・フレッツェン」
お前の同胞だ、と付け加えるのはどこかおさまりが悪い気がして、苦々しく飲み下した。下手なことは吹聴して回らないほうがいいというのもあるが、もっと何か……ものすごく、不似合いな気がしたのだ。今の自分自身に。
「レグル。レグルは何をしているの?」
「見りゃわかんだろ、落ちたんだよ」
「落ちた?」
レグルはむっつりと口を引き結び、頭上をちょいちょいと指差した。少女が上を仰いだのがわかった。長いこと首を固定したまま、感想ひとつ返ってこない。非常に気まずい。情緒面の発達もいまひとつ未熟なようだ。
ようやく返ってきたひとことが、
「……首が痛いわ」
「戻しゃいいだろっ」
……これである。フーブラス自治区に忍び込むたびに散々味わった暖簾に腕押し。まずい、本気で頭痛がしてきた……
「んで、カーラ? お前はこんなとこで何してんだよ」
「なにかにぎやかだったから、見に来てみたの」
首を戻しながら、カーラが言った。最小限の無機的なしぐさに、淡々とした口調。省エネモード時のルークのそれを髣髴とさせる。意思疎通のハードルの高さは比ではないが。
「じゃなくてな、えーと……なんでこの遺跡にいるんだ? 誰かに連れてこられたのか?」
「さあ」
「さあって、オイ」
「連れてこられたことはないわ」
「ってことは、自分で来たのか?」
「違うわ」
「はぁ?」
「『来た』ことはないの。ずっとここに『いる』の」
「そんじゃお前……まさかここで暮らしてるのか?」
レグルは周辺を見回した。
歩廊からは青黒く塗りつぶされて見えた遺跡の底は、どうやら住宅街になっているようだった。壁際には蟻塚めいた建造物がぎっしりと敷き詰められている。歩廊真下に当たる中央の広場には、立ち並ぶ石柱の合間に、枯れ井戸らしきサークル状の石垣や長椅子を思わせる彫刻の残骸なども見受けられ、二千年前の生活感がかすかに感じられる。
マルクトの肥沃な土地で育ったレグルには貧民窟という発想はなかったが、二千年経っても立派な意匠を維持している中層部との貧富の差は簡単に推測できた。封鎖された巨大空間の底の底。ここでの暮らしは大変だったろう。長年の流砂でところどころ砂に埋もれてしまっているようだし、今でも人が住んでいるというのはちょっと考えにくい。生活力のないレプリカならなおのこと。
「……お前、家はどこだ?」
「家?」
「メシ食ったり、寝たりするとこだよ。そんな服着て、まさか野宿ってわけじゃ……お前、その目……」
砂のクレーターから脱出して、ようやく間近で見た少女の顔に、レグルは唖然とした。
少女の――カーラの両目は、包帯のような長細い布の向こうにすっかり隠されてしまっているのだ。妙に目線が読みにくいとは思っていたが、距離や明るさの問題ではなかったらしい。
「……見えてんの?」
「見えなきゃ、歩けないわ」
「いやまあ、そうだろうけどさ。なんでわざわざつけてんだ」
「はずしてはいけないの」
「それ、誰に言われたんだ?」
「だれ……」