彗クロ 3
レグルはびくりと肩を跳ね上げた。にわかに正常な鼓動が戻ってくる。驚くほど速やかに常態を取り戻した脳が、状況と、自らの姿勢を確かめる。カーラは、実は額ひとつぶん背が高い。そして、レグルは今、腰の引けた姿勢で半歩後ずさっている。――めっちゃかっこ悪い。
「んなっ……――なんでもねぇよ! サクサク案内しろやゴル――や、頼むから先行ってくれ、こっち見んな、見ないで、マジで……」
「? そう?」
カーラは疑問符を浮かべつつ、特に尾を引いた様子もなく踵を返した。
順調に遠ざかる背中に、情けなく胸を撫で下ろし、レグルはだるだると後に続いた。そしてふと視線を上げ、顔をこわばらせた。
青黒い闇が、急速に深まった。立ち止まった地点が最後の光源だったのだ。あとはひたすら、奥へ向かうほどに暗くなる。先が見えない。
「……なあ、カーラ。本当にこっちなのか?」
「ええ。もっと奥よ」
「おまえ、そんなトコに住んでんのか?」
「寝食を行う場所、というなら、そうよ。何か問題があるの?」
「問題、っつか……なんか、変っつーか、普通じゃないっつーか……不自然?」
「そうなの? 普通というのがよくわからないのだけれど。そもそも、普通でなければいけないものなの?」
「や、まあ、別にフツーじゃなくても悪くはねぇけど……あーいや、どういうふうに普通じゃないかにもよるだろ」
「……よく、わからないわ」
「これは、ダチの受け売りだけど」
唐突に頭痛の差し込むような感覚に顔をしかめ、こめかみを押さえながらも、レグルは記憶を丁寧になぞるように言った。足はとうに止まっている。
「……今あるこの世界は――おれたちの知ってる人間的な社会構造や生活様式は、オリジナルたちが何千年とかけて築いてきたものだ。オリジナルなんて連中はばかばかしいほど欠陥だらけで、ヤツらの信望する文化なんてものはとうてい完璧からはほど遠い。けど、そこにある時代の蓄積は決して馬鹿にできるもんでもない。欠陥だらけの人類が、曲がりなりにもウン千年という時間を積み重ねて「これがいい」ってたどり着いたもの、「こっちがマシ」って続けてきたものが、いわゆる『普通』ってやつなんだ。つまり……ええと、『最適化』、だったっけか」
「最適化……」
「もちろん、完全なんてもんはないから、今後発展していったりする可能性はあるわけで、今現在最適だと思われている『普通』からハミ出して新しいやり方を見つけようとすること自体は、悪いことでもなんでもない……と思う。ただ、じゃあどうして『普通』から外れるやり方をしなくちゃならないのか、しようとしているのか、っていう理由とか動機とか――『普通』じゃダメだと、そいつが思った原因。それが問題なんじゃねぇか……って」
ちくりと、痛みを伴わずにはいられない指摘だ。自分で言い出しておきながら、レグル自身、身につまされる。
だが、今は瑣末な感傷にかかずらっている場合ではない。ここで今重要なのは、このレプリカの少女の危うさ。そして、彼女を庇護する何者かの意図だ。
「人間は、地上で暮らすもんだ。まあ、この遺跡みたいに、地下に住んでた連中も実際いたんだろうさ。けど、ここは見るからに大昔「失敗した」文明だ。『最適化』に失敗したんだ。『普通』じゃない。ってことは、今ここに住んでるおまえも、『普通』じゃない」
「確かに、そうね」
カーラは暗がりの向こうで振り返り、レグルとまっすぐ向かい合っていた。目線はやはり読めないが、明らかな好奇心をそこに感じる。この少女は、心の成長の中途にあるのだ。
まだ光の届く場所から、暗がりの中へ。レグルは得意ではない頭をひねって、己の感じた違和感を出来うる限り論理的に訴える。
「そもそも『普通』が何かさえ知らないおまえを、こんな『普通』じゃない状態に押し込めてるヤツがいる……これは、すごく不自然なことだ。不自然だって感じること自体、なにか裏があるってことだと思う。『普通』じゃない状況を意図的に作ってるヤツに、目的がないはずがない。だから、あー、っと……不安、ってわかるか?」
「危機感。いずれかの未来に起こるであろう事象への、漠然とした恐れ」
「そう、それだ。『普通』じゃない状態になっている理由がわかっていて、自分が納得できているなら、それでもいい。けど、理由がわからないまま『普通』じゃない状況に放り込まれたら、それは怖い。おれならきっと不安になる。だから、不安をどうにかして克服しようとすると思う。「どうしてなのか」を知ろうとすると思う。……おまえはどうだ?」
「どう?」
「おまえ、話はヘタだし、いろいろトんでるっぽいけど、馬鹿じゃないだろ。つかたぶん、おれより頭はいい。他のヤツらが言うこと、一方的に頭ん中に詰め込まれるだけじゃなくて、詰め込まれたものを利用して、自分で考えてみろよ。自分で自分の頭を使って、行動してみろ。したら、こんな回りくどいこと言わなくたって、おれの言いたいこと、少しはわかんだろ」
「……それを言ったら」
カーラはまた首を傾けた。今までの、いかにも無垢なそれとは違う。眼帯の下の瞳を眇めるような、どこか挑発的にも見えるしぐさだった。
「あなたの言っていることも、鵜呑みには出来ないと思うのだけれど」
「……そーだよ。耳に入ってくる情報なんてそんなもんだ。どいつもこいつも自分の都合に相手を合わせようとしてくんだ。まずは初めに疑って、そのあと考えろ。おれを信用できるかどうかも含めてだ。考えてもわからないなら、どうすれば判断できるようになるのか、方法を考えろ。自分の出来る範囲でな」
「難しいわね……教えられた以上のことをするのは、難しいわ」
「そうか? んじゃおまえ、「なんかにぎやかだから」っておれの前にノコノコ野次馬に出てきたのは、教えられた通りの行動だったのか?」
にやり。口の端を持ち上げてやると、カーラは口つぐんだ。この能面のレプリカに、少なくとも何がしかの「揺らぎ」は投じられたようだ。
「……とても、参考になったわ。そうね、さっそく試してみようかしら」
「は?」
いくばくとなく黙考より返ると、カーラは何を思ったか、目的の方向ではなくレグルの隣をすり抜けた。暗がりから、光の射す方へ。
彼女につられて背後を振り返ったレグルは、息を呑んだ。
日射の紗幕の向こう側に、人影があった。それも一人ではなく、大勢。確実に十人はいる。
反射的に鞘を掴みながら、レグルはほぞをかんだ。……気づかなかった。いくら話に夢中になっていたからといって、勘が鈍りすぎている。このところ他人と接触する機会が多すぎた。『人間』に対する警戒心が、薄れてきているのだ。
奇妙に整然と居並ぶ人々は皆、全身を厚ぼったいローブですっかり包み隠しており、体格、人種、性別に至るまで、傍目からは一切が読み取れない。カーラに輪をかけて、時代錯誤の、いかにも胡乱な風体だ。
カーラは怖じた様子もなく、彼らに向けて一歩を踏み出す。
「戻ったわ。散歩に行っていたの。――ところで、あなたたち、誰?」
いかにも既知の人物に呼びかけるように気安く、カーラは誰何した。