遠い雨
「さっきお電話差し上げた者ですが」
お忙しいのにお邪魔じゃありませんでしたか、にっこり笑って少年は言った。幾分構えていた気配を解いて姉も表情を綻ばせた。
「いいえちっとも、すぐにシンちゃん呼んできますね」
姉は少年を案内して屋敷の門をくぐった。質素だが手入れの行き届いた客間に通されてしばらく待っていると、こないだの眼鏡坊やが現れた。
「あっあのどうもっ……」
ぎくしゃくと落ち着かない動きに眼鏡くんが頭を下げた。いまかけているのは予備の眼鏡か、デザインが古いので地味な造作の眼鏡くん本体ごと余計もっさりして見える。
「こんにちは、お邪魔してます」
必要以上の愛想遣いに少年は言った。顔を上げた眼鏡くんと目が合ったが、どうやら予想通り、先日往来で鉢合わせた相手だということには気付いていないようだ。余程あのおっさんのことしか見えていなかったのだろう、おめでたい話だ。
「……これ、一応どこも壊れてはいないらしいですけど」
少年はポケットから眼鏡を取り出し、包んでいた薄色のネル織りを広げて応接台の上に置いた。
「!」
厚い木製の天板に眼鏡くんが身を乗り出した。
「すっ、すみません本当ご親切に……」
恐縮した様子に眼鏡くんは何度も礼を述べた。いいえと笑って少年は返した。なんせここからが本題だった。
「眼鏡のことは、たまたまついでですから」
「えっ?」
古い眼鏡と掛け換えた眼鏡の蔓に眼鏡くんが手をやった。少年は惑わず口にした。
「僕、行く方知れずの父を捜しているんです」
「……っぇ」
眼鏡くんの顔色にさっと影が差した。少年は見逃さなかった。にっこり笑って筋書き通りの言葉を続ける。
「それでこちらのお屋敷によく似た人がいるらしいって聞いて」
「マ夕゛オさん、のことですか?」
押し出すように口にした眼鏡くんの声は掠れかけていた。そりゃそうだろう、彼が何を恐れているのか、まるで手に取るようにわかる。すまし顔を保つのもひと苦労だ。
「ちょっといいかい?」
と、襖の外で声がした。――おいおい何の冗談だよ、計ったようなタイミングじゃないか、少年は俯き、台の下に揃えた腿を抓った。
「あっハイ、」
上ずった声に眼鏡くんが応対した。
「……女少さんが、私に客が来てるって」
襖を開けて、何か作業を中断して来たらしい、手拭いを肩に掛けたグラサンおじさんが姿を見せた。――いまだ、
「父さん!」
少年は座布団を蹴って立ち上がり、おじさんの胸に縋った。
「……、」
少年の体当たりをまともに喰らった格好のおじさんは何が起きたか咄嗟に理解できていないようだった。
「どうして……どうして俺を……、ヒドイじゃないか父さん!」
擦り切れた半纏にくぐもった響きを押し当て、少年は小刻みに肩を揺らした。
「父さん……?」
眼鏡くんが呆然と呟く。――いい気味だ、背後の気配に少年はほくそ笑んだ。
「……僕ね、あれからとても後悔したんだ、それでずいぶん捜したんだよ父さん、」
顔を上げると少年は甘えを帯びたいかにもな哀切口調に訴えた。
「……」
再び声を上げて泣きじゃくる少年にひしと抱き付かれたまま、おじさんはぼんやり突っ立っているばかりだった。見方によってはあまりの衝撃の大きさに、逆に真に迫っているとも取れる。
「むっ、息子さんがいたなんて……、そんなっ、本当なんですかマ夕゛オさんっ?!」
たまりかねたように眼鏡くんが詰め寄った。
「……シンちゃん、」
茶請けを持って入ってきた姉が、静かに首を振って弟をたしなめた。眼鏡くんは一歩下がり、固めた拳に俯いた。
「ごめんなさいね、私たち何も知らなくて」
――マ夕゛オさん、自分のことはあまり話してくれなかったから、正座した畳の脇に盆を据えつつ、幾分寂しそうに姉が言った。なんだこっちのねーちゃんもかよ、いい加減、腹の底から込み上げる笑いを少年は噛み締めた唇に耐えた。
「そんなことないです」
おじさんの半纏から手を離すと、目薬を仕込んだ拳で目尻を拭う仕草に少年は振り向いた。
「まぁ、話すと長くなるんですけどちょっとした事情が込み入ってまして、父さんと言っても僕と父さんとは義理の親子なんです」
「まぁ……」
頬に手を添え、姉はなおさら同情を深めたようだった。眼鏡くんは黙って聞いている。おじさんが無反応なのをいいことに、自然な動作で仕込みの目薬を袖口の隠しスリットに滑らすと、少年はひとり芝居を続けた。
「それで僕、ごらんの通り赤毛だわ長ランだわ華麗にボンタン着こなすわ、若干一通りグレてたことがありまして、あげく荒むに任せて、――父さんなんか本当の父さんじゃないくせに! 常套禁句持ち出して、父さん泣かして家出させてしまったんです」
「まぁぁ……」
用意した茶を薦めようとしていた姉が、気の毒そうにおじさんを見た。
「……。」
おじさんは特に反論もせず、猫背を丸めて項垂れていた。傍で聞いている眼鏡くんは、すっかり目が据わって人相が変わっていた。
「……いいんですか」
眼鏡くんがぼそりと言った。
「えっ?」
――なぁにシンちゃん? 姉が弟の方を見た。眼鏡の弟くんは少年用に出された茶を奪い取ると一気にあおり、空の湯呑みを受け皿に叩き付けるようにして言った。
「このままマ夕゛オさんを、あんなトンチキツッパリヤローのとこに帰らせていいんですかっ!」
どうせまた、グレて暴れてマ夕゛オさんを悲しませるに決まってるんだ、
「ちょっとシンちゃん、」
失礼でしょ、茶で悪酔いした弟の剣幕に姉は戸惑っていた。箍の外れた弟の勢いは止まらない。
「それにっ、あっ、姉上だってマ夕゛オさんのことっ」
「シンちゃん!」
何を言い出すのだと姉が慌てた。弟は二杯目の、おじさんの分の湯呑に手をつけた。喉を鳴らしてたちまち空にしてしまうと、今度も台に叩き付ける。
「姉上がマ夕゛オさんと結婚すればっ、そしたらマ夕゛オさんは僕の父さんだったのにっ!」
「シンちゃんっ!?」
姉が止める間もなく、弟は袴を翻して客間を飛び出して行った。姉はおろおろとおじさんを振り向いた。
お忙しいのにお邪魔じゃありませんでしたか、にっこり笑って少年は言った。幾分構えていた気配を解いて姉も表情を綻ばせた。
「いいえちっとも、すぐにシンちゃん呼んできますね」
姉は少年を案内して屋敷の門をくぐった。質素だが手入れの行き届いた客間に通されてしばらく待っていると、こないだの眼鏡坊やが現れた。
「あっあのどうもっ……」
ぎくしゃくと落ち着かない動きに眼鏡くんが頭を下げた。いまかけているのは予備の眼鏡か、デザインが古いので地味な造作の眼鏡くん本体ごと余計もっさりして見える。
「こんにちは、お邪魔してます」
必要以上の愛想遣いに少年は言った。顔を上げた眼鏡くんと目が合ったが、どうやら予想通り、先日往来で鉢合わせた相手だということには気付いていないようだ。余程あのおっさんのことしか見えていなかったのだろう、おめでたい話だ。
「……これ、一応どこも壊れてはいないらしいですけど」
少年はポケットから眼鏡を取り出し、包んでいた薄色のネル織りを広げて応接台の上に置いた。
「!」
厚い木製の天板に眼鏡くんが身を乗り出した。
「すっ、すみません本当ご親切に……」
恐縮した様子に眼鏡くんは何度も礼を述べた。いいえと笑って少年は返した。なんせここからが本題だった。
「眼鏡のことは、たまたまついでですから」
「えっ?」
古い眼鏡と掛け換えた眼鏡の蔓に眼鏡くんが手をやった。少年は惑わず口にした。
「僕、行く方知れずの父を捜しているんです」
「……っぇ」
眼鏡くんの顔色にさっと影が差した。少年は見逃さなかった。にっこり笑って筋書き通りの言葉を続ける。
「それでこちらのお屋敷によく似た人がいるらしいって聞いて」
「マ夕゛オさん、のことですか?」
押し出すように口にした眼鏡くんの声は掠れかけていた。そりゃそうだろう、彼が何を恐れているのか、まるで手に取るようにわかる。すまし顔を保つのもひと苦労だ。
「ちょっといいかい?」
と、襖の外で声がした。――おいおい何の冗談だよ、計ったようなタイミングじゃないか、少年は俯き、台の下に揃えた腿を抓った。
「あっハイ、」
上ずった声に眼鏡くんが応対した。
「……女少さんが、私に客が来てるって」
襖を開けて、何か作業を中断して来たらしい、手拭いを肩に掛けたグラサンおじさんが姿を見せた。――いまだ、
「父さん!」
少年は座布団を蹴って立ち上がり、おじさんの胸に縋った。
「……、」
少年の体当たりをまともに喰らった格好のおじさんは何が起きたか咄嗟に理解できていないようだった。
「どうして……どうして俺を……、ヒドイじゃないか父さん!」
擦り切れた半纏にくぐもった響きを押し当て、少年は小刻みに肩を揺らした。
「父さん……?」
眼鏡くんが呆然と呟く。――いい気味だ、背後の気配に少年はほくそ笑んだ。
「……僕ね、あれからとても後悔したんだ、それでずいぶん捜したんだよ父さん、」
顔を上げると少年は甘えを帯びたいかにもな哀切口調に訴えた。
「……」
再び声を上げて泣きじゃくる少年にひしと抱き付かれたまま、おじさんはぼんやり突っ立っているばかりだった。見方によってはあまりの衝撃の大きさに、逆に真に迫っているとも取れる。
「むっ、息子さんがいたなんて……、そんなっ、本当なんですかマ夕゛オさんっ?!」
たまりかねたように眼鏡くんが詰め寄った。
「……シンちゃん、」
茶請けを持って入ってきた姉が、静かに首を振って弟をたしなめた。眼鏡くんは一歩下がり、固めた拳に俯いた。
「ごめんなさいね、私たち何も知らなくて」
――マ夕゛オさん、自分のことはあまり話してくれなかったから、正座した畳の脇に盆を据えつつ、幾分寂しそうに姉が言った。なんだこっちのねーちゃんもかよ、いい加減、腹の底から込み上げる笑いを少年は噛み締めた唇に耐えた。
「そんなことないです」
おじさんの半纏から手を離すと、目薬を仕込んだ拳で目尻を拭う仕草に少年は振り向いた。
「まぁ、話すと長くなるんですけどちょっとした事情が込み入ってまして、父さんと言っても僕と父さんとは義理の親子なんです」
「まぁ……」
頬に手を添え、姉はなおさら同情を深めたようだった。眼鏡くんは黙って聞いている。おじさんが無反応なのをいいことに、自然な動作で仕込みの目薬を袖口の隠しスリットに滑らすと、少年はひとり芝居を続けた。
「それで僕、ごらんの通り赤毛だわ長ランだわ華麗にボンタン着こなすわ、若干一通りグレてたことがありまして、あげく荒むに任せて、――父さんなんか本当の父さんじゃないくせに! 常套禁句持ち出して、父さん泣かして家出させてしまったんです」
「まぁぁ……」
用意した茶を薦めようとしていた姉が、気の毒そうにおじさんを見た。
「……。」
おじさんは特に反論もせず、猫背を丸めて項垂れていた。傍で聞いている眼鏡くんは、すっかり目が据わって人相が変わっていた。
「……いいんですか」
眼鏡くんがぼそりと言った。
「えっ?」
――なぁにシンちゃん? 姉が弟の方を見た。眼鏡の弟くんは少年用に出された茶を奪い取ると一気にあおり、空の湯呑みを受け皿に叩き付けるようにして言った。
「このままマ夕゛オさんを、あんなトンチキツッパリヤローのとこに帰らせていいんですかっ!」
どうせまた、グレて暴れてマ夕゛オさんを悲しませるに決まってるんだ、
「ちょっとシンちゃん、」
失礼でしょ、茶で悪酔いした弟の剣幕に姉は戸惑っていた。箍の外れた弟の勢いは止まらない。
「それにっ、あっ、姉上だってマ夕゛オさんのことっ」
「シンちゃん!」
何を言い出すのだと姉が慌てた。弟は二杯目の、おじさんの分の湯呑に手をつけた。喉を鳴らしてたちまち空にしてしまうと、今度も台に叩き付ける。
「姉上がマ夕゛オさんと結婚すればっ、そしたらマ夕゛オさんは僕の父さんだったのにっ!」
「シンちゃんっ!?」
姉が止める間もなく、弟は袴を翻して客間を飛び出して行った。姉はおろおろとおじさんを振り向いた。