遠い雨
「……んじゃそろそろ夕飯にしよか、」
山積みのビニール袋を廊下に運び出したあとで少年が言った。
少年はどっこらしょっと昼間店から背負ってきた風呂敷包みを床に広げた。何だろうと思っていたのは、包みいっぱいに小龍包が詰まっていたのだった。おじさんは昼間の少年の怒涛の食欲反芻&床一面を埋め尽くす小龍包を見ただけでお腹いっぱいになったので、自分用に持たされていた1パック分も残り半分ばかし少年にくれてやった。
食後のお茶は少年が淹れた。闘球部並みの特大やかんになみなみ揺れる黄金色の茉莉花茶、――こんなにうまい茶が淹れられるのに、おじさんはまた少年のことがわからなくなった。
「……おじさんさぁ、」
金魚でも飼えそうな丼鉢からごくごく茶を煽りながら少年が言った。
「俺を助けたつもりかしんないけどさ、」
言葉を切ると少年は笑った、
「あの眼鏡くんはどーすんのさ?」
「あの子なら大丈夫だよ」
背を丸めて一口ずつ茶を啜りながらおじさんは答えた。
「いつか話せばわかってくれる」
「……、」
少年の肩でおさげが揺れた。「本当おめでたい連中ばっかりだよ」
金魚鉢に二杯目の茶を注ぎながら少年は言った。
「俺だったらそーとーおじさんを恨みに思うよ」
――今日あたり歯ぎしりまみれで寝られないだろうね、付け加えて少年は愉快そうに笑った。
「そうかい」
顔を上げないまま、湯呑みを抱えておじさんは言った。
「なんだか少し安心したよ」
「は?」
少年は手元の金魚鉢を傾けて眉を寄せた。目を上げておじさんは言った。
「そんな風に誰かを憎いと思えるのなら、その逆だってできるはずさ」
「何言ってんだよおじさん」
少年は金魚鉢の茶を飲み干した。おじさんは髭面に微笑を浮かべた。
「私が思っていたより、君はずっと人間らしい」
「……。」
少年は金魚鉢を床に置くと口元を拭った。
「なんか知んないけど」
それからニッと笑ってみせる。「今日は気分がいいから、そういうことにしといてやるよ」
茶の時間が済むと、銘々適当な場所に寝床を作って横になる。
「――おやすみおじさん、」
そういう遊びをしているみたいに少年が言った。
「ああおやすみ」
おじさんも返した。目を閉じる前、カーテンのない窓から月が覗いていた。いちおうは屋根付きだけど、野宿気分は久しぶりだな、おじさんはそんなことを思った。
「……おじさん」
少年の寝袋がごそごそ音を立てた。
「ん?」
テントの布を毛布代わりに、腕組みして俯いていた目線を上げておじさんは訊いた。
「どーでもイイけど、寝るときくらいグラサン取りなよ」
くすくす含み笑いに少年が言った。
「……ウン、いいじゃないかそれはまた今度で」
おじさんは語尾を濁すと固い寝床に寝返りを打った。半纏の内ポケットにしまった眼鏡がぽとりと胸元に転がり落ちる。月明かりの中おじさんはしばらくそれを見つめていた。
「――おじさん、」
おじさんの背後で、欠伸混じりに少年が言った。
「やっぱりおじさんは相当おかしなおじさんだよ」
――おやすみ、やはり楽しげな声のあと、すぐに少年の寝息が聞こえて来た。
+++
一晩過ぎて朝が来た。
「……、」
テントシートを這い出して寝ぼけグラサンを擦ったおじさんに、
「おはようおじさん」
少年が明るい声に呼びかけた。
「……ああ、おはよう……」
起き抜けのこもった声におじさんは返した。意外に朝型だったらしい少年はとっくに起き出していて、家庭のお勝手口に置いてあるサイズの蓋つきポリバケツいっぱいに、どこの屋台からか朝粥を調達してきていた。
「おじさんも食べる?」
ちぎった油麩やら空芯菜の煮びたしやらオイスター豚角煮やらを手当たり次第にブチ込んで、ざっくり攪拌したやつをおたまに掬って少年が訊ねた。
「いっ、イヤ私は朝はお茶だけで……」
おじさんは傍らの湯呑みに手を伸ばし、底に残っていた昨夜の茉莉花茶をちびちび啜った。
「ふーん、」
それ以上無理に薦めることはせず、少年はおたまに汲んだ粥を忙しげに口に運んだ。最後にはまどろっこしくなったのか、バケツごと抱えてごきゅごきゅ喉に流し込む。
「そっ、そーいやまだ名前も聞いてなかったな」
見ているとまた食欲不振を起こしそうなので、横を向いておじさんは訊ねた。
「名前?」
空になったバケツを置いて少年が言った。
「名前なんか意味ないよ」
少年は粥まみれの口元をくすりと綻ばせた。「おじさんはおじさんでたまにときどき父さんだし、俺は俺だ」
「――しかし、」
おじさんは食い下がった。
「君を呼ぶとき困るじゃないか」
「別に困らないさ、それその“君”でいーじゃん、」
少年は粥を拭い、よっこらせっと胡坐を解いて立ち上がった。――なるほどとそうか?と、おじさんも半分論破されかけた。
「君……、どーしてもアレだったらその場合のみ緊急避難的にキミちゃん、か……?」
おじさんは腕組みをして考え込んだ。「なんだかちょっとハムスターみたいだけども……」
「は?」
振り向いて少年が訊き返した。
「――いやいやこっちの話だ、」
おじさんは慌てて手を振った。
「そーぉ?」
うーんと伸びをして少年が言った。「それじゃおじさん、メシも済んだし、今日は家族ごっこに付き合ってくれんだろ?」
少年はニッと笑顔をみせた。おじさんは首を傾けた。
「家族ごっこ?」
「ホラやっぱ休みの日はさー、ゆーえんちとか行くんじゃないのねっ父さんっ、」
少年が子供じみた仕草に首を傾け返した。
「ゆーえんち……」
おじさんは寝起きの頭がぐらぐらした。――公園なら、せめて入園料のいらない近所の公園なら、あそこなら慣れた我が家みたいなもんなのに……! おじさんは我が身の不甲斐なさをつくづく恥じた。
「とーさん俺いートコ知ってんだ」
――もちろんロハだよ、少年が目配せした。
「えっ」
おじさんの青ざめた顔色にひとすじの光明が差した。
「それじゃ父さん、レッツゴー!」
少年は足元の覚束ないおじさんの手を引き、もう一方の手には今日は格別天気がいいからか、日傘を持って揚々とビルの外に出た。
番傘差したヤンキー赤毛少年と見るからにくたびれた油切れのおっさん、手に手を取って仲良く往来を行くには不自然すぎる取り合わせだったが、せっかくのホリデー日和に、いちいち突っ込んでくる物好きも暇人もいなかった。
山積みのビニール袋を廊下に運び出したあとで少年が言った。
少年はどっこらしょっと昼間店から背負ってきた風呂敷包みを床に広げた。何だろうと思っていたのは、包みいっぱいに小龍包が詰まっていたのだった。おじさんは昼間の少年の怒涛の食欲反芻&床一面を埋め尽くす小龍包を見ただけでお腹いっぱいになったので、自分用に持たされていた1パック分も残り半分ばかし少年にくれてやった。
食後のお茶は少年が淹れた。闘球部並みの特大やかんになみなみ揺れる黄金色の茉莉花茶、――こんなにうまい茶が淹れられるのに、おじさんはまた少年のことがわからなくなった。
「……おじさんさぁ、」
金魚でも飼えそうな丼鉢からごくごく茶を煽りながら少年が言った。
「俺を助けたつもりかしんないけどさ、」
言葉を切ると少年は笑った、
「あの眼鏡くんはどーすんのさ?」
「あの子なら大丈夫だよ」
背を丸めて一口ずつ茶を啜りながらおじさんは答えた。
「いつか話せばわかってくれる」
「……、」
少年の肩でおさげが揺れた。「本当おめでたい連中ばっかりだよ」
金魚鉢に二杯目の茶を注ぎながら少年は言った。
「俺だったらそーとーおじさんを恨みに思うよ」
――今日あたり歯ぎしりまみれで寝られないだろうね、付け加えて少年は愉快そうに笑った。
「そうかい」
顔を上げないまま、湯呑みを抱えておじさんは言った。
「なんだか少し安心したよ」
「は?」
少年は手元の金魚鉢を傾けて眉を寄せた。目を上げておじさんは言った。
「そんな風に誰かを憎いと思えるのなら、その逆だってできるはずさ」
「何言ってんだよおじさん」
少年は金魚鉢の茶を飲み干した。おじさんは髭面に微笑を浮かべた。
「私が思っていたより、君はずっと人間らしい」
「……。」
少年は金魚鉢を床に置くと口元を拭った。
「なんか知んないけど」
それからニッと笑ってみせる。「今日は気分がいいから、そういうことにしといてやるよ」
茶の時間が済むと、銘々適当な場所に寝床を作って横になる。
「――おやすみおじさん、」
そういう遊びをしているみたいに少年が言った。
「ああおやすみ」
おじさんも返した。目を閉じる前、カーテンのない窓から月が覗いていた。いちおうは屋根付きだけど、野宿気分は久しぶりだな、おじさんはそんなことを思った。
「……おじさん」
少年の寝袋がごそごそ音を立てた。
「ん?」
テントの布を毛布代わりに、腕組みして俯いていた目線を上げておじさんは訊いた。
「どーでもイイけど、寝るときくらいグラサン取りなよ」
くすくす含み笑いに少年が言った。
「……ウン、いいじゃないかそれはまた今度で」
おじさんは語尾を濁すと固い寝床に寝返りを打った。半纏の内ポケットにしまった眼鏡がぽとりと胸元に転がり落ちる。月明かりの中おじさんはしばらくそれを見つめていた。
「――おじさん、」
おじさんの背後で、欠伸混じりに少年が言った。
「やっぱりおじさんは相当おかしなおじさんだよ」
――おやすみ、やはり楽しげな声のあと、すぐに少年の寝息が聞こえて来た。
+++
一晩過ぎて朝が来た。
「……、」
テントシートを這い出して寝ぼけグラサンを擦ったおじさんに、
「おはようおじさん」
少年が明るい声に呼びかけた。
「……ああ、おはよう……」
起き抜けのこもった声におじさんは返した。意外に朝型だったらしい少年はとっくに起き出していて、家庭のお勝手口に置いてあるサイズの蓋つきポリバケツいっぱいに、どこの屋台からか朝粥を調達してきていた。
「おじさんも食べる?」
ちぎった油麩やら空芯菜の煮びたしやらオイスター豚角煮やらを手当たり次第にブチ込んで、ざっくり攪拌したやつをおたまに掬って少年が訊ねた。
「いっ、イヤ私は朝はお茶だけで……」
おじさんは傍らの湯呑みに手を伸ばし、底に残っていた昨夜の茉莉花茶をちびちび啜った。
「ふーん、」
それ以上無理に薦めることはせず、少年はおたまに汲んだ粥を忙しげに口に運んだ。最後にはまどろっこしくなったのか、バケツごと抱えてごきゅごきゅ喉に流し込む。
「そっ、そーいやまだ名前も聞いてなかったな」
見ているとまた食欲不振を起こしそうなので、横を向いておじさんは訊ねた。
「名前?」
空になったバケツを置いて少年が言った。
「名前なんか意味ないよ」
少年は粥まみれの口元をくすりと綻ばせた。「おじさんはおじさんでたまにときどき父さんだし、俺は俺だ」
「――しかし、」
おじさんは食い下がった。
「君を呼ぶとき困るじゃないか」
「別に困らないさ、それその“君”でいーじゃん、」
少年は粥を拭い、よっこらせっと胡坐を解いて立ち上がった。――なるほどとそうか?と、おじさんも半分論破されかけた。
「君……、どーしてもアレだったらその場合のみ緊急避難的にキミちゃん、か……?」
おじさんは腕組みをして考え込んだ。「なんだかちょっとハムスターみたいだけども……」
「は?」
振り向いて少年が訊き返した。
「――いやいやこっちの話だ、」
おじさんは慌てて手を振った。
「そーぉ?」
うーんと伸びをして少年が言った。「それじゃおじさん、メシも済んだし、今日は家族ごっこに付き合ってくれんだろ?」
少年はニッと笑顔をみせた。おじさんは首を傾けた。
「家族ごっこ?」
「ホラやっぱ休みの日はさー、ゆーえんちとか行くんじゃないのねっ父さんっ、」
少年が子供じみた仕草に首を傾け返した。
「ゆーえんち……」
おじさんは寝起きの頭がぐらぐらした。――公園なら、せめて入園料のいらない近所の公園なら、あそこなら慣れた我が家みたいなもんなのに……! おじさんは我が身の不甲斐なさをつくづく恥じた。
「とーさん俺いートコ知ってんだ」
――もちろんロハだよ、少年が目配せした。
「えっ」
おじさんの青ざめた顔色にひとすじの光明が差した。
「それじゃ父さん、レッツゴー!」
少年は足元の覚束ないおじさんの手を引き、もう一方の手には今日は格別天気がいいからか、日傘を持って揚々とビルの外に出た。
番傘差したヤンキー赤毛少年と見るからにくたびれた油切れのおっさん、手に手を取って仲良く往来を行くには不自然すぎる取り合わせだったが、せっかくのホリデー日和に、いちいち突っ込んでくる物好きも暇人もいなかった。