前に進む勇気
* * * * *
キスの雨が降る。
額や瞼、こめかみに頬に、そして唇に。耳朶に触れ、首筋をなぞる。濡れた音が聴覚からロイドの脳を犯していく。
大きな手が胸に触れ、腹の位置で止まる。じんわりとした熱が布越しに伝わってきて、ロイドの体温を上げていく。
だが―
「悪いロイド……今はここまでだ。」
「ぇ……」
ちゅ、と音を立てて頬に口づけると、ランディはゆっくりと身体を離した。どさりとソファに体重を預けて天を仰ぎ、視線だけをロイドへと流す。その表情は苦し気で眉間に深い皺が刻まれている。
「ラン、ディ?……どうして……?」
「できねえんだ……俺はお前に、これ以上触れられない。」
絞り出すように低い声が落ちる。瞳の奥に情欲を燻らせながら、以前にも見せたことのある暗い闇色に染まったスカイブルーを見つめ、ロイドも身体を起こした。
「……どういう、こと、なんだ?」
「…………」
震える声で問うてもランディは答えない。ただ視線を逸らし、瞳を閉ざしたままだ。どれほど待っても何も言わない男を見つめ、ロイドは俯いて服の裾を握りしめた。目の前が暗くなり、小刻みに震える指先がゆらりと滲む。
「ごめん……言いたくないことだって……あるよな……」
「……悪い。」
「謝るなよ……わかってた、から……」
「ぇ……っ!」
驚いたように呟き、ランディがロイドのほうを向く。と同時に息を飲んで身体を起こした。その様子を気配だけで察しながら、ロイドは俯いたまま言葉を続けた。
「ランディは女の子が好きなんだから……」
(俺には、女の子みたいな気遣いも癒しもできないから)
「おいロイド?」
「男の俺なんか、抱けないって……」
(俺には、女の子みたいな胸も笑顔もないから)
「いや、そうじゃな―」
「当たり前、だよな……」
(俺には何も……何もないんだから)
「落ち着けって、なぁ―」
「っ!触らないでくれ!」
焦ったような声と共に伸ばされた手が頬に触れる。だがそれを払いのける乾いた音が室内に響いた。呆然と見つめ返すランディと視線が合うが、その顔も一瞬にして揺らいで崩れる。ほろりと落ちた涙が頬に一筋、道を描いた。
「嫌なら嫌だって!迷惑だって!そう言えばいいじゃないか!」
「な!?ちがっ―」
「俺だってわかってる!男なのにこんな気持ち普通じゃないって!」
「だからそうじゃなくて―」
「でも仕方ないだろ!それでも俺はランディが好きなんだから!!」
大声で叫んで唇を噛む。
なんて醜態を晒しているのだろうと、どこか冷静な自分が己を嗤う。だが同時に、どうせ終わる関係なのだから構うものかと囁く声も聞こえて、ロイドは小さく息を吐いた。ポロポロと零れ続ける涙をぐいと拭うと、そのまま視線を落とした。
「ごめん……ランディは優しいから、だから俺に合わせてくれてたんだよな。それなのに責めるような事言ってごめん……。でももう、いいから。……これ以上は、余計惨めになるだけだから。」
低く押し殺した声で呟き、真っ赤になった瞳で告げると、立ち上がって扉へと向かう。これ以上この場に居たら、もっとひどいことを言ってしまいそうだったから。
だが――
「っ?!」
「誰が合わせてるっつーんだよ。一人で勝手に終わらせんな。」
扉を開く前に追いつかれ、腕の中に捕らわれる。背中に感じる温もりに縋りたくなる自分に絶望しながら、ロイドはその想いごと振り切ろうと身を捩った。
「放せよっ!はなっ……っ!」
強引に上向けられた唇にランディのそれが重ねられる。ぞくりと震える身体が一瞬抵抗を止めるが、強引に押し入ろうとする動きに我に返ると、反射的に噛みついて渾身の力で男を突き飛ばした。
「痛っ……っと、逃がさねぇよ。」
「やっ、嫌だ!放せって!」
緩んだ拘束をかいくぐって距離を取ろうとし、だが腰を捕らわれて再びランディの腕の中に戻る。どうにか抜け出そうと身を捩るうちにある感覚を腰に感じて、ロイドはぴたりとその動きを止めた。
「……ラ、ンディ……?え、と……あの……」
「あー……バレた?」
ようやく抵抗をやめたロイドの肩に、がくりとランディが頭をもたれさせる。背後から抱きしめられ、覗きこむようにして見つめられてロイドの顔が赤くなっていく。
「ど、いう……こと?……俺、嫌われたんじゃ……」
「だから違うって。嫌いなヤツ相手にこんなことになるほど無節操じゃないぜ?」
明らかに形を変えたその部分をロイドの腰に押し付け、ランディがニヤリと笑う。その露骨な仕種にロイドはさらに顔を赤くすると、男の視線を避けるように顔を伏せた。
「悪かった。ちゃんと全部話すから。……だから頼む。話を聞いてくれ。」
一転して真剣な声で請われ、ロイドは俯いたまま小さく頷く。その動きに合わせて、目尻に溜まった涙がきらりと光って床へと落ちた。