ゴーストQ
身体を寄せ合っている箇所から体温が移ってくる。鼻先に肩、口元に鎖骨、鼓動を伝える平たい胸。それらの温度を感じると、オレの中でわだかまっていたものが消えそうになる。
このまま消えていいのだろうか。今度同じようなことがあったら、もっと苦しくなるかもしれない。その時オレは世の中を呪わずにはいられない。
「……やっぱオレには無理だよ、水谷と付き合うの」
「何で今更そんなこと言うんだよ」
「だって水谷のこと信じられない」
今回のことだって、オレが水谷のことを信じていれば、あんなふうに激しい拒絶を示したりしなかったはずだ。
黙り込んだオレの後頭部を覆うように、手のひらが触れた。二、三度優しく撫でたあと、そのまま下がって首の付け根に冷たい感触がする。気持ちいい。淀んでいた頭の中が少しだけ透明になる。
「それはオレに好かれてる自分が信じられないの? それとも栄口のことが好きなオレを信じられないの?」
「どっちも」
即答した。それらの事実をすんなりと受け入れられたら、もっと水谷の前で素直になれる気がした。でもどちらとも絶対無理だ。根拠がない。
「なら栄口自身はともかく、オレのことだけは信じてよ」
「そっちのほうが無理」
「ひっでえ」
水谷はきっと変わる。高校のときからあんなに変化したのだ、芸能界で活躍するこれからはもっと変化が著しくなる。そんな相手を信じる素直なバカになんてなりたくなかった。
「あのさぁ」
襟足を手で軽く叩かれる。こちらへ注意を促すような動作だった。
「言っとくけどオレずっと好きだったんだからな。高校のときも、今も、栄口しか頭にないのに、信じられないとか言われたらやっぱ……」
言葉が続いてこない。しばらく黙って待っていたら、肩のあたりで鼻をすする音が聞こえた。
「あー何泣いてんだオレ……」
水谷が急に深呼吸したから、密着していた身体がわずかにずれた。鼻先が首元へ当たると、もっと強く水谷の匂いがして切なくなる。
「アイドルのくせに泣くなよ」
「うっ、うるさいなぁ」
オレの背中を軽く叩いて抗議してきたものだから、なんだかおかしくて吹き出してしまった。腕の中でけたけたと笑い声を上げると、すぐ目の前にある鎖骨に響いたらしく、水谷は「くすぐったいからやめて」と訴えてきた。その声が必死に何かを堪えていて、とても情けなかったから、オレはますます笑い転げてしまった。
我慢できなくなった水谷も笑い出すと、お互いの身体がぶつかって小さく跳ねた。しばらくの間、狭い玄関に声が反響していたけれど、見計らったかのように笑い声が止む。
「栄口」
水谷はそう名前を呼んで、あごを上へ向かせた。見上げた視線の先にはかなりずれた眼鏡がある。別に抵抗する理由もなかったから、オレは素直に目を閉じた。