ゴーストQ
オレはというと、普通の高校球児から普通の受験生へと肩書きが変わり、黙々と英単語を覚える毎日だった。これだけ努力しているのにもかかわらず、成績は夏体の前とほとんど変わらず、全く上向く気配が無い。むしろ下がっている科目まである。
今日帰ってきた模試の結果を睨み付けていると、向かいに座っている水谷が笑う。
「眉間にシワ寄ってら」
「マジで」
まじまじ、水谷はそう言い、雑誌のページをめくる。こいつがオレと比べて随分のん気なのは、願書を出せば受かる所ならどこでもいいという、非常に大らかな進路の選択をしているからだった。
「そんなにひどいの?」
「ひどい」
教室にはオレら以外誰もいなかったから、この惨状を共有したくて机の上に結果を広げた。
「まず数学と生物が終わってる」
「へー」
「あと英語が虫の息」
水谷がまじまじと成績表を覗き込む。オレが数字を指差すと、水谷の視線もついてくる。だから別に至近距離にその顔があるのも自然な流れだったし、その毛先がオレの額へ触れて少しくすぐったいのも当然のことに思えた。
「栄口」
そう名前を呼ばれ、目線を上げたときには、唇の辺りに柔らかい感じがしていた。鼻先が触れそうな距離で水谷がぎゅっと目を閉じている。
つまりこれはキスをされているのではないだろうか。そう気づいたのは、水谷の舌がオレの下唇をゆっくりと舐めたときで、それまで全くこの事態を把握できなかったのだった。
オレはとりあえず殴ってしまった。平手で殴ってしまった。振り上げた手は水谷の耳の少し上へ叩きつけられ、多分ワックスか何かを付けているからか、あいつの毛先が変な位置でキープされていた。出来損ないの寝癖みたいだった。
水谷は何も言わず下を向く。乱れた髪形を直そうともしない。
正直オレは今までの人生で一番混乱していた。そもそも誰かとキスをするなんていうのも初めてだった。あのぬるい温度を持った舌が唇の上を這ったとき、ぞくりと首筋を下りていった何か。そんなもの、よりによって水谷から与えられたくなかった。
「あ、あの、オレさ……」
向かいの水谷が顔を上げ、呼応するようにオレは顔を下げた。
「栄口のことがずっと好きだったんだ」
当然オレは何も言えない。キスだけでも頭の許容値を超えているっていうのに、そんな重大発言されたって、困る。耳の奥では未だ水谷の「好きだったんだー」がエコーで鳴り続けている。
困る。困るんだ。オレには何も、どうにもできないんだ。水谷は三年間、ただの友達だったじゃないか。それなのにいきなりキスして「好きだ」なんて突きつけられたって、なんて返せばいいんだよ。少なくともオレは水谷のことをキスしたいほど好きじゃない。友達としてならそこそこ好き。そう伝えるべきだったが、口はパクパクと酸素を取り込むだけで言葉を全く出せずにいる。
「困ってる、よな?」
水谷が出してきた助け舟にすばやく乗り込み、勢い良く首を何度も縦に振る。『困っています』という意思表示をこれ見よがしにしてしまった。
「……だよなぁ〜」
あーあ、という呻き声とともに水谷は机へ溶け、その風圧で模試の紙が遠くへひらひらと飛んだ。机に伏せった茶色い毛だまりは、てっきりしばらくここで管を巻くと予想していたのに、突然立ち上がり、広げていた雑誌を乱暴に閉じた。
「出直してくる……」
ほとんど独り言に近いセリフを吐き捨て、水谷は教室から出て行った。まるで冬の前に必ずある、でかい嵐のような出来事だった。