ゴーストQ
ぞわっ、と背筋に何かが走る。寒気でも悪寒でもなく、それは予兆だった。純粋な前触れが肌を撫でた。
なんで今になって水谷から連絡が来るんだ。二年間全くなかったのに、久しぶりに昔のことを思い出していた、どうして今。
どうしようかと悩む間も与えず、冷えた指先から携帯が滑り落ちた。ガッ、ゴッ、と鈍い音を立てて二回跳ね、前の人の足元へ勢い良く着地した。それでもなお振動は止まず、不気味な生き物のように地面を這う。
さすがに電話していたその人も落ちたオレの携帯に気づいたらしく、自分の携帯を耳に当てたまま、拾おうと屈んでくれた。焦っていたオレが駆け寄るより早く携帯を拾い上げ、こちらへと身体を向ける。オレは何だか恥ずかしかったし、いろんな事態が立て続けに起こっているせいもあり、相手の顔なんてまともに見ちゃいなかった。
その人がおそらく電話を切ったと同時に、手の内の携帯もビービーと警告音を出しながら震えるのを止めた。まるで手品か魔法みたいだった。
「栄口?」
その声にオレは弾かれるように顔を上げてしまった。偶然が恐ろしくなる。幻ではなく、テレビの中でも平面上でもなく、水谷がそこに存在していた。
ごう、と風を纏った電車がホームへ入ってくる。水谷の毛先が無造作に舞う。少し困ったような、はにかんだような顔を傾け、ふっ、と優しく笑う。
「ひさしぶり」
水谷の声は聞こえたけれど、「うん」と返した自分の声は駅名を連呼するがなり声で掻き消されていた。
まばらな乗客がホームへと降り立つ。水谷もこの電車に乗るはずなのに、後ろを振り返ろうともしない。オレは水谷から真っ直ぐに見つめられて、一歩も動けずにいた。
「すっげー偶然!」
にっと笑った水谷は確かにオレの知っている水谷だった。眼鏡をかけているけれど、砕けた雰囲気も、オレより低いその声も、携帯を渡してくれた関節の目立つ手も、水谷以外の誰でもなかった。
「なんか栄口びびってる?」
「ほんとに水谷かなって思ってた」
「あー、眼鏡かけてるからか!」
正直それは関係なかった。下へずり落ちた眼鏡くらいで変装と呼ぶにはお粗末だと思う。
「違うよ」
「えっ、なにそれ」
「お前が有名になりすぎたんだよ」
「そりゃオレ、超がんばったし」
そうか、と味気なく返事をしたら、水谷はなぜか少し物足りなさそうな表情を浮かべた。
その後ろで重いドアが閉じ、電車は次の駅に向かおうとする。視線を奥へと向けたオレに気がついたのか、そのときになって水谷は初めて振り返った。流れていく電車を見送りながら、「やべー乗るの忘れてた」とぼやく。
「ていうかいつから後ろにいたの」
「水谷が電話かける前からずっといた」
ぎゃあ、と水谷が喚く。理由は察せないのだが、何かとてつもなく恥ずかしいことをしていたらしく、顔を両手で覆う。
「いたんなら声かけろよ!」
「いや、こっち向くまで水谷だってわかんなかった」
それにまさか芸能人の水谷がこんなところにいるなんて思ってもみなかった。正直にそう告げたら、いるから普通に、と怒られた。
「栄口いつもこの駅使うの?」
「いや、今日だけ……」
「どっか行ってきたの?」
野球部の、とまで口に出したら水谷は察したらしく、自分も行きたかったけど仕事があった旨を切々と語った。大体予想はついていたけれど、やっぱり水谷は多忙なようだった。
「水谷やっぱり忙しいんだなぁ」
「そーそー、これからもっと……って、あっ!」
「な、なんだよ」
いきなり大声を出したものだから、真正面にいたオレはひどく驚いてしまった。
「次のクールから始まるドラマに出させてもらえることになったんだった!」
「へーすげーじゃん、どんなドラマ?」
「こう、なんていうか、片思いしてるっぽいかんじ?」
水谷の説明はあやふやだったけれど、多分今流行のドラマに出るんだなということは推し量れた。
「なんかもう、水谷は一人前の芸能人だなぁ……」
「栄口もそう思ってくれる?」
「思う思う」
「ほんとに?」
聞き返してきた声が変に強張っていた。不審に思ったオレが水谷の表情を確かめると、なぜだか眼鏡が外されていた。
「さっき電話したのは、それを言いたくて」
眼鏡がなくなった水谷の顔は、高校生のときより少し大人びていた。それよりも何よりも、その瞳に宿る光がびっくりするほど強くて、オレは怯んでしまった。