はじまる一週間(土曜日)
僅か十何歳の高校男子のやる事なのか、とジェネレーションギャップにも似た感情を覚えるが、帝人の照れた顔と組まれた親指が落ち着き無く動く姿を見ると、その気持ちもほんわかと霧散して消えてしまう。残るのは(俺のためか、優しいな)という賛辞だけである。
「メールしてくれりゃ良かったのに」
「驚かせたかったんですよ」
確かに街中でこれを見たら驚くだろうな、と静雄も思いながら備え付けられていた箸を持った。恐らく驚くのは静雄だけではなく、トム含む周囲の人間も同様だろうが、静雄はそんな想像力はない。
そもそもこの弁当は俺のために作ったらしいから俺の物という認識が静雄にはある。縄張り意識の強い狼のような思考なのだ。
「うまい」
卵焼きを口に含んで静雄は気付かずにそう呟いた。隣で笑う帝人も僅かに嬉しそうなのを見やってから、余計に静雄も嬉しくなる。嬉しいな、と思いつつ箸はどんどん動かれていく。
綺麗に作られたたこさんウインナーを口に含んだところで、静雄は帝人の様子に気付いた。にこにこと自分を見ながら笑う帝人に視線を移して声を掛ける。
「お前、食わないのか」
「え」
自分がどんどん弁当の中を荒らすのに対して、帝人が箸を付ける様子はない。
それどころか箸をその手に持っている事がない事に今更に気付いて、静雄は顔を顰めた。ウインナーを口に入れたまま、最後に残していた甘い卵焼きを箸で取ると帝人の口元に運んでやる。食え、と言って差し出したものの、口内に未だ食べ物が残っているせいで静雄の言葉は「ふえ」と訳の分からない語句になった。
「え、いいですよ僕は! お腹空いてないですからっ」
「俺が良くない」
無理矢理口に突っ込むように卵焼きを帝人に差し出すと「ふがっ」と帝人が声を上げた。そのままもごもごと「別にいいのに」と言いながら咀嚼している姿を見て、静雄はトマトを箸に突き立てた。
帝人の喉が動いた事を確認して、もう一度口に箸を持っていく。
「これ楽しいな」
静雄が箸を近づけると、照れて目尻を赤くした帝人が口を開けてくれる。その仕草がテレビで見たまだ自分で餌をとることが出来ない雛と重なって、静雄は一人ほくそ笑んだ。帝人が口を動かしたまま首を傾げる様が、更にテレビ内の雛を重ねてくれる。
「静雄さんも食べてください」
「俺は食べてる。美味い」
重箱の下の段にある三角のおにぎりを左手に持ったまま、静雄は右手で箸を運んでやりながら呟いた。文句なしに美味いのは本当である。
(これが付き合うって事か)と静雄はぼんやりと思う。弟の幽が出ているドラマで一度、付き合っている男女が同じ事をしているのを見ていたお陰である。
(なら俺は今まで付き合ってた事にはならないな)とも思う。静雄が他人に物を食べさせたのは帝人が初めてだった。
初めての体験が帝人である事を静雄は喜ばしく感じ、咀嚼と帝人の口元に箸を動かしながら静雄は思う。
昨日初めて映画館で無事に映画を見れた事も、隣に帝人がいたせいではないかと静雄は考えていたのだ。自分を怒らせない存在である帝人でなければ、きっと映画館を壊していただろうと実際は椅子の肘掛け部分を壊している事実を忘れて静雄は思う。
その後ぺろりと平らげられた弁当を片付けて、二人で座ったままテレビを見る事となる。
テーブルには帝人が淹れてくれたココアが二つのコップの中に注がれていた。台所の戸棚の中から帝人が見付けて淹れてくれたのだ。(こいつは何から何まで凄いんだな)と静雄は帝人が部屋から来て口癖の様に喋る賛辞を心中で思う。
静雄にとって帝人は平凡な高校生には遠い存在に思えてきた瞬間である。
牛乳を温められて作ったココアを飲んで「うまい」と言えば「普通ですよ」とはにかむように笑われて、その笑顔に胸がうずいて静雄はむせ返る事になる。大丈夫ですかと慌てる顔も見てられなくて、(どうしたんだ)と静雄は自分の身体に不信感を抱いた程である。いつだって静雄の身体は自分の思い通りにはいってくれないのだ。
「夕飯も作ってくれ」
気付けば、昼過ぎに放送されるドラマの再放送を見ながら静雄はそう呟いていた。隣で帝人が僅かに肩を震わせているのを見て、(だめか)と静雄はがっかりした。次に(なんでそんな事言い出した、俺)と自分に疑問を抱く。
「静雄さんてせっかちですね。もうお腹空いたんですか?」
笑う帝人は、静雄とは違う答えを見出したらしい。「いいですよ」と続けられた言葉に、静雄は思わず笑顔を零してテーブルのカップを手に取った。
「そういえば、台風が来るらしいですよ」
まどろむ空間で二言三言の会話の中で、帝人が緩い瞬きをしながらそう呟いた。
静雄が窓の外を見れば、確かに雨が降り始めている。なるほど、だから風が強かったのかと帝人を見ると、うっすらと目を閉じていた。
「竜ヶ峰」
元々静雄は口数が多い方ではない。帝人も静雄ほど口べたとは言えないが、自分の事ばかり喋るタイプではなく聞き上手な方である。食事を終えてからぽつりぽつりとテレビを見ながら互いに喋っては相づちを打って沈黙する事が常だった為、静雄も暫くは気付く事がなかった。
緊張しながら名前を呼んでみても自分に返ってくる言葉を聞けなくて、静雄はこの時(ああそうか、俺は竜ヶ峰に静雄さんて呼んでもらえて嬉しいのか)と自身の心境の変化に気付いた。
具合が悪いのかと隣を見ると、瞼を閉じてソファに寄りかかる帝人に一瞬静雄は肝を冷やす。人間を殴るのは得意分野だが、気を失っている者をどうにかする事は静雄には出来ない。
すぐに級友の考えの読めない闇医者が笑っている姿が脳裏に過ぎ去り、急いで手を口元に持って行くと規則正しい息づかいが分かってほっと胸を撫で下ろした。
「寝てるだけか」
思い返してみれば、静雄が電話をしたのは深夜0時近くである。いくら最近の若者が遅くまで起きているとはいっても、更に先程胃袋に収まった弁当の件もある。
料理が出来ない静雄には分からなかったが、行事ごとの前日に早起きをしている母親を思い出した。重箱を用意するのには相当の時間が掛かるのだろう、食事を作る事に慣れている母親ですら二時間前に起きるほどなのだ。
自分の為にと言って渡された弁当の中身を思い出し、次いで必死でそれを作っている目の前の少年を想像して、静雄は帝人の小さい頭に手を置いた。
髪の毛の動きに逆らわない様に撫でてやると、短い猫の毛並みに似たそれがふわふわと静雄の手をくすぐってくる。柔らかい細さに何度も撫でてやっていると、帝人の身体がゆるゆると傾いて静雄の肩に頭を乗せた。
「お前に触るのは初めてだな」
静雄は自ら進んで他人に触れる事はない。壊してしまったら事だからだ。公共物の破損代金の上に賠償金まで払わされたら、静雄は一生ただ働きである。
だから今までも無意識化で腕を掴んだ事はあったが、この少年に触れる事は出来なかった。
自分を好きだと言ってくれたその顔や自分に向けて無邪気な笑顔を見せてくれる少年のその顔を悲痛に歪ませたくなどない。そんな事をすれば、帝人が静雄の元を去らない保証などないし、いなくなる方がずっと多い事を静雄は経験則から理解している。
作品名:はじまる一週間(土曜日) 作家名:でんいち