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飛空都市の八月
飛空都市の八月
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SOUVENIR II 郷愁の星

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 部屋から引っ張り出そうとしてリディアの腕を引きかけたジュリアスの動きが止まった。
 「何だ……と?」
 手を払うと、リディアは寝台の向こう、壁際まで来た。
 「私はあなたを斬り殺そうとした父さま……私からジュリアスを奪う者はたとえ父さまでも許さない!」
 わがままな子どもの、あまりにも愚かな言いぐさだ。リディアには充分わかっている。だが、これが本音なのだ。
 その言葉に呆然としてリディアを見ていたジュリアスは、やがて呻くように言った。
 「リディア……私を追いつめるな」
 意外な言葉だった。ふっとリディアの肩から力が抜けた。
 「追いつめる……? 私が?」
 「そうだ。私のことをそこまで思ってくれていることを知った私がそなたの言うことを聞いたとして、一体その後どうするつもりなのだ」
 今度はリディアがジュリアスの視線から目を反らした。
 お見通しだ。
 「……私には耐えられない」
 吐き捨てるようにジュリアスが言った。その少しだけ甲高くなった声に驚いてリディアは再びジュリアスのほうを見た。
 「そなたはそれで満足かもしれないが、私の思いはどうなる?」
 ……ジュリアスの思い……?
 リディアは愕然として、拳を握り肩を震わせるジュリアスを寝台越しに見た。
 「私を何だと思っている。私はそなたを“女”にするための道具ではないぞ」
 「そ……そんな!」リディアは思わず叫んだ。「道具だなんて思っていない!」
 「そうではないか」ジュリアスはじり、とリディアのいるほうへ歩みを進めた。リディアはジュリアスの迫力に圧されて壁の隅にその身を追い込んでいく。
 「以前、私はそなたに力のないところに突然力を与えられた民がどう反応するか教えてやったことがある。今回のように勇気を司る風の守護聖から力を与えられた人々は、それを真の“勇気”とはき違え、相手を糾弾することから始める。正直に相手の欠点を言い募ることが“勇気”なのだと思い込む。先の神官殿のせいもあって、そなたにその矛先が集中する。そなたはそれを知っていて願ったのだ。そなた自身が願わなければまだ対処できる時間があるものを」
 リディアのすぐ近くまでジュリアスが迫ってきた。
 「そして、そなたも“勇気”をはき違える」
 リディアにはもうこれ以上下がる場所がない。とうとうジュリアスの手がリディアの両腕を掴んだ。
 「民たちの目の前でそなたは自分を処するつもりだ。そのようにして責任を取ることがあたかも神官としての立派な行いであるかのように」
 リディアの腕を掴んだジュリアスの指先に力が込められた。その激しさにリディアは身がすくんだ。
 「……そうなる前に、私に抱かれたいと言うわけか、リディア。そしてそなたと情を交わした私の目の前で消え去るつもりか!」
 そのとき、リディアは掴まれた腕の痛みも吹き飛ぶぐらいの衝撃を受けた。怒りを顕にしながら、ジュリアスの目から涙が流れていたのだ。だが本人はまったくそれがわかっていないようだった。流れる涙をもろともせず彼は言い続けた。
 「とんでもない責任逃れだな。私はそのようにそなたを教育した覚えはない!」
 腕を引っ張ると、ジュリアスは軽々とリディアの体を抱きかかえて寝台へ寝かせ、リディアの上に伸しかかってきた。手首を押さえつけられ、身動きが取れない。そのつもりでこの館に来たのに、いざこの場に及んでリディアはジュリアスが恐ろしいと心底思った。目の前にジュリアスの顔が迫った。凄烈な蒼。そこから雫がリディアの頬へ、額へと落ち続けている。
 「……神官殿亡き後、そなたと二人で住まうわけにいかなくなった。住めばいつか私はこのようにしてそなたを……穢す。物理的に離れることが私自身への戒めでもあったのに」
 リディアは息を呑んだ。ジュリアスが自分に対してそのような欲望があったことを、リディアは初めて知った。
 「それは、そなたが私を父親代わりにしているに違いないと思っていたからだ。そしてそなたも神官殿のことがあって私を疎んじたから、これ幸いと離れた。だが……昔から孤独には慣れていたつもりだったが、そなたと過ごした時が長すぎた。いつも後ろから付いてきていたのに、もういないのだと思ったとたん酷く寂しくなった。私としたことが……嘆かわしいことだな」
 落ちついてきたのか、ようやく、ジュリアスはリディアの手首を掴んでいた指先の力を緩めた。目に浮かんだ激しい憤りの色も弱まった。
 「……私は、そなたが欲しい」
 唐突に発せられた言葉に、はっとしてリディアはジュリアスを見返した。
 「本当は、今ここで、どんなにそなたが止めてくれと願っても聞かぬほどそなたに私を刻みたい」
 ジュリアス、とリディアは呼びかけたつもりだったが声にならなかった。
 恐い。だが欲しい。かまわない、刻んでほしい。
 「……だから、そなたに生きていてほしいのだ。そう簡単に生きることを放棄しないでくれ。……この星がこうして存在し続けているように」
 この星が存在し続けているように……? 不思議なことをジュリアスが言った。聞こうとする間もなく、手首から指が外され、リディアの唇がジュリアスのそれに覆われた。ジュリアスは腕をリディアの背中に回して体を起こした。そして片方の手で。
 「そなたを絶対に死なせたりしない」
 その言葉の後、どす、という音だけが聞こえた。目の前があっという間に黒くなり、リディアの意識はそこで途切れた。