SOUVENIR II 郷愁の星
◆6
朝だ。
遠い意識の下でリディアはそう思った。頬に感じる空気が冷たい。う……と少し呻いて起きようとして腹に痛みを感じた。それで昨日のことを思い出したリディアは、痛いのを我慢して起き上がった。
見知らぬ部屋。だが、置いてある小物類には見覚えがある。いくつかはリディアが見繕ったものだったからだ。そして、広い寝台はもちろん部屋のどこにもここの主の姿はない。
酷い、とリディアは小さく呟いた。
あんなやり方はない。接吻で混乱させて鳩尾<みぞおち>を打つなんて。
とりあえず、リディアは寝台から立ち上がると自分の姿を見てみた。ローブ姿のまま、何の変化もない。安堵と落胆の気持ちが入り交じる。昨晩、確かに自分は覚悟してこの館を訪れたのに、いざというときになってすくんでしまった。あんな激しいジュリアスを、リディアは今まで見たことがなかった。
窓を見る。少し高台のここからは、全部とは言えないが神殿まわりが見える。空は真っ青だ。神殿のくっきりとした白さがリディアの目にしみる。
そのとき、神殿の中から一筋の光が空に向けてほとばしった。それに追随するように風が逆巻いて神殿に掲げられた旗を揺らす。
「風の力!」
小さく叫ぶと、リディアは寝台の側にある小テーブルにもたれさせるようにして置いてあった錫を見た。そしてそれを掴む。しゃらん、と音が鳴ったと同時に扉が開いた。
目が合う。
そして、ここの主であるジュリアスはリディアに手を差し出した。ジュリアスは執務官としての礼装姿だ。黒の上下にシンプルな金モールの刺繍がとてもよく似合っている。その表情に昨日の激情は微塵も感じられない。リディアも視線を外さずその手の上に自分の手を置いた。良くも悪くも、リディアはジュリアスからいわば帝王学とでもいうべきものを叩き込まれていた。だからこの瞬間、取り乱すことはリディアにはできなかった。
「神殿に行きます」
きっぱりとリディアが言い、ジュリアスが頷く。厳しい表情のままだ。だが、その口から出た言葉は違った。
「どのようなことになっても絶対に短気を起こすな、リディア。良いか、絶対だ」
そう言うと、彼は素早くリディアの手を引き、体ごと自分のほうに引き寄せ、強く抱きしめた。
そして離れる。
ジュリアスは再び星の政を司る執務官の顔に戻っている。戦おうとしている表情だ。今まで見えなかったジュリアスの自分に対する気持ちが痛いほど感じられた。
だがもう遅い。ジュリアスがいくら庇い立てしてくれても、自分の罪はあまりにも重い。
(ごめんなさい)
リディアは密かにジュリアスへ詫びた。
ジュリアスに連れられて来てみると、神殿前の広場にランディはいた。昨日クラヴィスの、力を発している様子を見る間もなく倒れてしまったリディアは、このまま近づいても良いものかと一瞬思案した。だが【黒い土地】と異なり、このように人の多い神殿で力を発するということは問題がないのだろうと思い直し、ジュリアスから手を離すとランディのほうへ向かった。
ランディは目を軽く閉じ、右手を高く掲げている。その手先から、あの光は発せられている。そのまわりを風が様々な方向から吹き−−違う。彼のほうから風は起こっている。なんと清涼な感覚。これが風の力というものなのか。リディアはその心地よい風を受けつつ、錫を静かにつきながらゆっくりとランディに近づいた。自分が来ていることを大仰にせずランディに知らせるためだ。
ランディの目が開かれ、しゃら……と音のするほうを見た。そして、リディアを見るとにっこりと笑った。
思わずリディアも笑い返した。この星に彼が来たとき、あれほど苦手だった彼の笑顔が、今はとても素敵に思えた。もともと風の守護聖たる彼の笑顔は、その司る力の如く人々に勇気を与えるものなのだろうとリディアは実感する。もう憂いに思うことはリディアにはない。あとは立派に神官としての責任を果たすだけ。
リディアは錫を握りしめる。
作品名:SOUVENIR II 郷愁の星 作家名:飛空都市の八月