朱金の王花
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疑いはあるのだろうが、それでも迷いなく進んでいく背中を見ながら、ブラッドレイは考えていた。
彼自身は世迷言だと思っている。建国の時代から伝わる「花」だなんて、そんなものはまるで子供の寝物語だ。結局国が興るのも滅びるのも人が為せる業のうちであり、政体は変わっても国としては続いてきたというのは、得体のしれない何かの加護によるものではなく、単純にその時代ごとに生きた者がそうなるべく努力した結果にすぎないだろうと。
だがしかし、存在するのだから仕方がない。
説明のできない、時間のない花園。百花繚乱の檻の中、総てを拒絶するように佇む佳人。それらは確かにここにいて、ブラッドレイが初めて見た時と比べてさえ何一つも変わらずに存在し続けている。そうであれば、その効果の程はさておき、信じるしかない。
今ブラッドレイの視線の先、回廊を曲がっていった男が連れてきた少年は、あの、檻の中の佳人に似ていた。今はまだ幼さが目立つが、長じればやがてはあの佳人に良く似た青年になるだろうことを予想させた。
ただの偶然ということも考えられたが、似ている相手はどう考えても人間ではないし、少年の錬金術の才能はあまりに卓越していた。まさしく天才と言うべき。その状況でただの偶然と片づけるのは、危険なことに思えたものだ。そして同時に、その少年を連れてきた男に対しても疑問を持った。いや、勘という程度の違和感を。
運命など、ブラッドレイは信じない。だが、それでも気にかかった。
大総統の視線を痛いほど感じながら、それでもロイは振り返らずに進んだ。
脳裏にはあの日この先で出会った、エドワードとよく似たおもざしのひとの姿がよぎる。
そのひとのいる場所で、エドワードは消えてしまったのだという。
「……」
あれが何者であるのか、本当にこの国の象徴というべきものなのだして、そんなことにはさして興味がなかった。今となっては。
『大佐がオレを馬鹿にしてるのは、よくわかった。もう聞かねえよ』
牡丹でさえなければ、と意味を含ませて言いながらも説明しなかったロイに、エドワードは怒って出て行ってしまった。怒らせてしまった。あれが一番最近のエドワードの思い出である。
牡丹の昔話を最初に知ったのは、随分昔のことだった。恋に狂ったひとりの男が、天の花を手折り、そして二度と天に帰さぬようにと閉じ込めた昔話。それを、ロイは自分の家系の古い口伝で知ったのだ。呪文のような、「花の精」の名前と共に。子供の頃は、いや、大人になっても、そんなものは忘れていた。単なる昔話だと思っていたのだ。忘れてはいけない、と教えられた名前は、何となく忘れることなく覚えていたが、それが必要になる日が来るなんて一度も思ったことはなかった。
あの日、あのひとと出会うまでは。そして、エドワードがその前で消えてしまったと聞くまでは。
記憶にあるのと同じ檻の前で、ロイは立ち止まる。既に回廊を曲がった後だ。大総統はあの場から動いていないのだろう。視線は感じなかった。彼の狙いはさっぱりわからない。わからないが、今はチャンスだと思うべきなのだろう。ロイは強引に自分を納得させた。
「………」
檻に触れる。柱はひんやりと冷たい。
「いるんだろう」
静かに声をかけた。今は目の前の花園に誰の姿もない。だが何もいないとはロイは思わなかった。ここには確かに「いる」のだ。大総統が言ったように。何者か、が。
「出てきてくれないか。…“ ”」
息を吸い込んで、ロイは慎重に紡いだ。気易い口調と裏腹、内心は緊張していた。口に乗せたのは今の言葉では表現しようのない音、そして名前。ロイの家に、ずっと古くから伝わってきた呪文。
しばらくは何も起こらなかったが、ざわ、と空気が変わった。そして唐突に、白い長い服を着た、エドワードに似た、けれど人を離れた美貌をもった「何か」が顕れた。その金色の目はじっとロイを見つめている。驚愕に彩られた瞳で。
ロイは黙って手を伸ばした。檻の中に。
「 “ ”。…あなたをここから、自由にしよう」
静かに告げれば、大きな瞳はさらに大きく見開かれた。だが予想外だったのは、そこにはかけらも喜びが存在していなかったことだ。自由を奪われた「花の精」はここから解き放たれることを望んでいるだろうに。
「…そのかわり、あの子を返してくれないか」
「……。おまえは、…」
佳人はためらいがちに檻の柱へ近づいてくる。そして、中へと伸ばされたロイの手に、そうっと触れた。その手はひんやりとしていた。
「…彼では、ないんだな」
「似ていますか」
きれいな顔が泣きそうに歪み、小さな頭がこくりと頷いた、と思ったが早いか、両手で顔を押さえてうずくまってしまう。まるで小さな子供のようだった。ロイも途方に暮れた気持ちになるが、そのまま膝をついて、両手で檻を握った。
この柱には呪いが込められている。国の隆盛を約束する花の精を縛り付ける呪いは、その名前を縛ることで成就されている。
ロイは錬金術師だ。錬金術師は魔法使いではない。呪術師でもない。だが、呪術もまた自由なものではなく、法則の中でしか効能を発揮しないというなら、公式を解くようなものだった。
「 “ ”を、自由に」
公式の解は、可能性なら無限に考えられた。だがもっともシンプルなものを試した。願う、という解だ。ロイの家系にこの名前を伝えた人物、恐らくこの呪いを遺した同一の人物が、呪縛が簡単に解けるようにしてあるという願いにかけた。名前を伝えたのは、いつか誰かにこのひとを自由にしてほしかったからだ、そういう、性善説を信じたのだ。
ぱりん、と何かが砕ける音がした。
「…!」
どうやら性善説は正しかったらしく、ロイの目の前でばりばりと柱が崩れて行く。消えた壁の向こう側へと踏み込めば、うずくまったまま顔を上げたひとと目があう。その美しく鮮やかな黄金!
「 “ ”…」
呼んだのは無意識だった。呼び方さえ、意識したものではなかった。それがかつてこの地に存在した男の呼び方と全く同じだったなんて、だから無意識の産物だったのだ。
けれど、そんなことはずっと閉じ込められていたひとには関係がない。大きな瞳に涙を浮かべると、そのひとは無我夢中でロイに抱きついてきた。あんなに詰ったのが嘘のように。かたく、もう離れないとでもいうかのように。
そしてロイも、何かに突き動かされるようにそのひとを抱き返していた。
「…なにやってんの」
どれくらいそうしていただろう。
柱がすっかり崩れ去り、時の止まっていた花園の植物がそれぞれに姿を変え始めていた。季節の合わない者は急速に枯れていき、新芽は濃い緑色へと。
そんな中に、不機嫌そうな少年の声が響き、ロイは弾かれたように顔を上げた。
「鋼の!」
無意識に、抱きしめていた体を離していた。そうして、全身全霊でエドワードの方を向く。そこまで全部無意識だった。だがそれらの仕種を、金色のうつくしいひとはじっと見ていた。
「無事だったのか!」