朱金の王花
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癇癪もちの気がある少年とその後見人がやりあうのは、いつものことといえばいつものことだった。だが、彼らはけして互いを嫌っているのでも、まして憎んでいるのでもない。どちらかといえばエドワードが毛を逆立てて突っかかっていくのが主だが、ロイだってそれを楽しんで、けしかけている節がある。
しかし、牡丹の話をした時の遣り取りは、普段のそれとは違っていたのだろう。エドワードは東方司令部に寄り付かないどころか、東部自体から足を遠ざけてしまったのだから。
初めは特に疑問も持たなかった唯一の旅の同行者も、これにはいささか怪訝な心持になったらしく、兄さん、大佐と何かあったの? と尋ねたくらいだ。
「は? なんでそうなるんだよ、あのいけすかない野郎がなんでオレらの進路に関係あんだよ」
じろりと不機嫌にこちらを睨みつけての台詞に、聡い弟は覚った。ああ、本当に大佐と何かあったんだな、と。確信を持った。
「別に、深い意味はないけど。ただあんまり東部から遠いところばっかり選ぶから」
さらりと返せば、偶然だろ、とそっけない返事。溜息をつきたくなって、今だけは心情の顕れない文字通りの鉄面皮を幸いに感じた。尤も、生身の体があったとして、よほどのことでもなければ感情をセーブする自信はあったが。
「ならいいけどね。でも、ボクはそろそろ東部に戻りたいな」
弟の素直な物言いに、兄は目を瞠った後、決まり悪げに窓の外を見た。
「…おまえがいうなら。別に。…東部のどこに行きたいんだ?」
「そうだねえ。ボク、今度フュリー曹長にカメラを貸してもらう約束してたんだ。イーストシティに行きたいなあ」
「……おまえ、アル、わざと言ってねえか?」
兄は疑いの目を向けてきた。それには、ひどいよ兄さん、疑うなんて、と非難めいた声を上げて。そうすれば案の定兄は、いや、別にそういうんじゃねえけど、ともごもご言い訳を呟いてくれる。まったく、兄は自分に甘い、とアルフォンスは冷静に考えた。いったのがアルフォンスでなかったら、きっとエドワードの明晰な頭脳はこれが咄嗟のでっちあげだということに気づいただろうに。
「んじゃ、…そうだな、セントラル回りになるけど、イーストに行くか…」
いかにも気乗りしない様子だったが、渋々でも、エドワードは弟の要望に応じてくれた。ありがと兄さん、と無邪気な風で答えながら、さて宿あたりで兄を風呂に押し込んだら東方司令部の女神に電話しないと、とよく出来た弟は内心で段取りを考えていた。
実際よく出来た少年である。
エルリック兄弟がセントラルステーションについたのは、そろそろ深夜になろうかというところだった。急いで駅近くの宿に転がり込んだのは、日付が変わるか変わらないか、と言ったところ。急いでいたのと時間が遅いのとで、もう少し駅から離れた所にある定宿までは行かず、初めて利用する宿だったがそこを選んだ。そして、時間帯のために、これでは電話は諦めたほうがいいだろうか、とアルフォンスは思ったが、とりあえずこれから向かうという伝言だけでも託しておこうかと兄の隙を見てフロントへ向かった。
電話を借り、東方司令部の当直の兵士に簡単な伝言だけを頼んでアルフォンスは部屋に戻った。エドワードはまだ風呂のようだった。
「…あれ?」
アルフォンスはそこで初めて、部屋の様子に気づいた。とりたてて特徴のない部屋ではあるが、清潔で申し分ない。そして、その壁には絵が飾ってあった。思わず近くによってまじまじと見つめれば、それが花の絵であることはわかる。ホテルってこういうの揃えるの大変そうだな、とぼんやり考えつつ、アルフォンスは絵を観察する。
「…何の花だろ?」
とりあえずそれは大輪の花だった。濃いピンク色をした。
暫しアルフォンスはそれを見ていたが、兄の足音を聞くと意識の外に締め出してしまった。おかしなことではない。花を見て美しいと思う心はあれど、それは大勢に関わるほどのことではない。
今は兄が戻ってくることの方が大事だし、明日からの行程を確認する方が有意義だった。花の話ならその後でも問題はなかった。雑談のレベルだろうから。
頭を拭きながら兄が入ってくるのを認めて、アルフォンスは、兄さん、と声を発する。それに顔を上げたエドワードの表情が、弟の背後というか斜め後ろというかの位置にある壁の絵を視界に入れた途端、複雑なものになる。それはごく小さな変化だったが、見逃してしまうほど一瞬でもなかった。
「兄さん? この絵、どうかしたの?」
「…? 別に」
「うそ、だって今変な顔したよ」
「…別に。してねえだろ、変な顔とか、…生まれつきじゃねえの」
がしがしと頭を拭く兄は機嫌が一貫してよろしくないようだ。一体全体何をここまでもめることがあったのだろうかと思う。思春期にしても難しすぎる。
「…思い出しただけだ」
諦めないというアルフォンスの言外の意思を感じ取ったらしく、エドワードは溜息混じりそう答えてくれた。
「何を?」
「…。アルは知ってっか? 牡丹の花の昔話」
「牡丹…? ああ、あれ? アメストリスは花の国、ってやつ」
「知ってんのか?!」
「知ってるよ。母さんが好きだったでしょ、お花とかそういうの」
「…なんで、…だってオレ知らねえぞ」
「兄さんは昔から人の話をあんまり聞いてなかったよ」
エドワードは目を丸くした後、ばつが悪そうにそっぽを向いた。否定するだけの材料がなかったようだ。
「ていっても、ボクが知ってるのが兄さんが言ってる話と同じかどうかはわからないけど。母さんが言ってたのは、アメストリスには昔きれいな大きな花が咲いていて、それがあんまり綺麗だったから王様が恋をしたのよ、っていう…」
「は?」
エドワードは素直に瞬きした。それはロイが話していたのとは少し違う気がする。
「でもその綺麗な花は天上の神様のものだったから、いつかは返さなくてはいけなかったんだって。だけど綺麗だったから王様は閉じ込めた。そして、神様は王様に呪いをかけた。でも花を取り返すまではアメストリスを滅ぼすことは出来ない…、っていう話だって」
どう? と首を傾げられて、エドワードこそ首を傾げたくなった。
「…ええと、なんだっけ、そういう話ってあるよな、なんだっけ? 天女が降りてきてどうとかこうとか」
「ああ、羽衣神話だね。この前ファルマン准尉が話してくれた」
そう、それ、と頷こうとしてエドワードは眉間に皺を軽く寄せた。
その話をした理由まで一緒に思い出したからだ。弟もそれは同じだったのだろう、くすくすと笑っている。エドワードは思い出していないふりで話を続けようとしたが、アルフォンスの方が上手だった。
「あれはうまい喩えだったよね」
「…うるせ」
それは、兄弟が東方司令部を訪れていたいつかの時のことだ。
エドワードが言うだけ言うといつもすぐ姿を消してしまうのをどうにか引き伸ばしたかったらしいロイが、今日は暑いだろう、なんていって巧みにエドワードのコートの脱衣を勧め、隙を突いてそれを隠してしまったのだ。