朱金の王花
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消化不良の顔をした兄が、頭が止まっている目で「オレはもう寝る」と言い出した時、アルフォンスは留めたりしなかった。そうだね、疲れてるんじゃないの、と言って優しく就寝を促したのみだ。
そうして、壁にかかった絵を見つめた。
牡丹の伝説。それは他愛も無い昔話のはずだ。だがアルフォンスにはただひとつ、エドワードに語らなかったことがあって、それがどうしても気にかかっていた。
母がアルフォンスにあの昔話を聞かせたのは、エドワードがいないときのことだった。アルフォンスは兄を「人の話を聞いていないから」とこきおろしたが、これに関しては本当にエドワードが知らないことなのだ。
あの子がお腹にいるときに、とっても綺麗な花の夢を見たのよ。
母はそんな風に言っていた。そして、あの花の昔話をアルフォンスにしたのだ。もしかしたらあの子もそういうお花なのかもしれないわ、王様に奪われてしまったら困るわねえ、と笑って。当時のエドワードと言ったらやんちゃどころかとんでもない暴れん坊で、とてもそんな印象はなかったから、そんな王様いないってば、とアルフォンスは笑ったのを覚えている。そうよねえ、と母も笑っていた。
けれどもエドワードが長じるにつれて、アルフォンスはたまにあの母の話を思い出すようになっていた。
確かにエドワードは女性的とはとてもいえないし、どこからどう見ても少年だった。その胆力たるややはり男性のものだ。だが、たとえば「華のある人物」などと形容することがあるように、エドワードには華があった。存在感と置き換えてもいいかもしれないが、とにかく、立ち居振る舞いが派手で人目を惹くのは間違いなかった。それらはけして彼が意識して得たものではなく、生来のものだろう。アルフォンスの兄は、とても人目を惹く存在だったのだ。その才能だけでなく、全てが。
今王様と言って思いつく相手は二人いた。
ひとりはその名の通り「キング」を名に戴く大総統だ。エドワードは軍属の国家錬金術師だから、ひとたび彼の命があれば、おいそれと逆らうことは出来ない。命を握られていると、それはそう表現してもよいものだろう。
そしてもうひとりは、エドワードを国家錬金術師へと誘ったロイ・マスタング大佐だ。今のところ彼は兄弟をからかいながらも援助してくれている。一見わかりにくい人物だが、悪人ではない。どちらかといえば優しい男だろうとアルフォンスは思っている。そして、何のかんのと反抗したところで、エドワードが無意識下でどんなに彼を信頼し、慕っているかを知っていた。心を奪われるというのなら、きっとあの大佐にだろう。そんな気がする。こうしてそっぽを向くのだって、皆思慕の裏返しなのだろうから。
馬鹿馬鹿しい、全ては御伽噺だ。それに兄も彼らも皆男だ。奪われるといっても、そもそも兄からして大人しく頭を垂れるタイプではない。まあいいか、と彼はそれきり考えるのをやめてしまった。
少なくとも、その夜はそこでやめてしまえたのだ。まだ。
翌朝、思っても見なかった方向に話は動いた。
「おや、鋼の錬金術師君じゃないかね!」
「…!」
早朝に駅に向かった兄弟は、やけに物々しい警備に眉をひそめたが、警戒より向こうが登場するのが早かった。さしものエドワードも常のふてぶてしさを忘れて引きつった。
何しろ、大総統が早朝から駅にいるとは夢にも思わない。
結局なしくずしに一緒の車に乗せられ、駅とは反対、大総統府に向かいながら、エドワードはなんでそこに大総統がいたのか、ということを知った。なんでもどこぞの視察の帰りで、途中で事故があったせいで到着が今朝になってしまったのだそうだ。そんなことを知らされてもエドワードはありがたくもなんともない。せめて弟を咄嗟に駅において来れてよかったとそればかりを考えていた。東方司令部でもあるまいし、アルフォンスを軍部の中になんて連れて行きたくはない。どんなに容赦がなくても、舌鋒が鋭くても、エドワードを兄と思っているのか怪しいときがあったとしても、それでも可愛いたった一人の弟だ。…そこまで思ったら、何となくむなしくなり、その先を考えるのをエドワードはやめた。
「しかし君とセントラルで会うとは珍しい。いつまで滞在の予定なんだね?」
いやセントラル自体には来てないわけじゃないんですが、とエドワードは思ったが、どう答えてよいかわからず、とりあえず後半への回答を口にする。
「今日、イーストシティへ向かうつもりです」
「なに、今日とな。むむ、寂しいことを言う」
「………」
寂しいって言われても、とエドワードは沈黙するしかなかった。助けを求めるように侍従官にちらりと視線を送ったが、無視された。まあ相手も自分の身が可愛かろう。それはわからないでもない。
「もう暫く滞在していかないか、何、宿のことなら心配はいらない。わしの邸に来ればよい」
はっはっは、と笑われ、エドワードはぎょっとした。何を言い出すのだ、この最高権力者は!
「そうだ、弟も一緒なのではないかね? 彼も呼ばせよう」
「はっ」
恭しく侍従が頭を下げるのに、まずい、とエドワードは焦った。
「え、あ、す、すいません、あいつはあの、急用が! あって! こ、故郷のですね、隣の家のばっちゃんが、き、危篤でっ」
エドワードは頭の中でピナコに両手を合わせた。
「そ、それでですね、オレも急いで向かいたいんですけどでも弟が先に行きますんで、あの、あのっ」
あんまり下手なことを言ってとんでもない手段を行使されても困る。とにかくアルフォンスだけでも逃がさないと、とエドワードは必死だった。自分だって大総統邸に行くなんて真っ平なのだけれども。だが弟の体のことがばれるのは困る。大いに困る。
そしてそんな場所に招かれて隠し通すのは、かなり骨だろうと思われた。
「ふむ…、それは確かに心配だな。医者の手配をさせよう」
「い、いや、医者はですね、あの、…た、大佐が、マスタング大佐が! イーストシティの病院で、あの!」
今度はエドワードは頭の中で中尉に頭を下げた。ロイではなく。
だがロイの名を出した途端、大総統は少し考え込むような顔をした。そして、言った。
「…鋼の錬金術師君は、大総統府の中を見学したことはあるかね?」
まるきり変わった話題に、エドワードはきょとんとした。いえ、と正直に首を振る。国家錬金術師として必要な部屋には勿論入ったことがあるが、それだけだ。大体、大総統府とはその名の通り大総統がいる場所なのだ。そうそう用事があるわけもないし、まして見学なんてありえない話だった。
「そうか。では、案内しよう」
「え…」
「お隣のご老人は、マスタング大佐が病院を手配してくれたのだろう? であれば、少しの時間はあるのではないか。なに、後で確認させておく」
ばれてる、とエドワードの背中を冷や汗が落ちた。だが今さら「やっぱり嘘でした」ともいえない。そしてどのみち、エドワードに逆らうことなど出来ない。少なくとも今の時点では。
「…はい」
言葉少なに答えれば、そうだ、昼は何がよいかね、とまるで好々爺の顔になって大総統は話を続けた。食えないおっさんだ、とエドワードは内心で舌打ちした。