笑顔について。
「おかえり、ジョーカーくん」
メイド姿のままのジョーカーが、超巨大飛行船トルバドゥールの船室に立つ。手には小さなトランク。
「なかなか似合うね」
一足先にトルバドゥールに戻っていたクイーンは、ソファーでワインを飲み、くつろいでいた。
「変装してるのに、似合うも何もないでしょ」
ジョーカーはムスッとして返す。
「ずいぶん派手に騒いでましたけど、あなたのほうの首尾はどうだったんです?」
「ああ……これかい?」
クイーンが指で宝石をはじく。赤いルビー。天井近くまで飛んだルビーをうまくキャッチして、ニッと笑う。
「まぁ、こんなの軽いものだよ。小さいしね」
「そうじゃなくて……」
「逃げるのが大変だったよ。なにしろ、わざと警官と追いかけっこして、屋敷から引き離さなくちゃいけなかったんだからね。書類を奪うきみのために」
『手を抜くのに苦労したよ』と首を横に振って、大げさなため息を吐く。
ジョーカーは、ふとわいた疑問に首を傾げた。
「あなたが書類を奪う役をやったほうがよかったんじゃないですか?」
クイーンがさも驚いたというふうに身をはねさせ、ジョーカーをまん丸い目で見る。
「何を言うんだい、ジョーカーくん! 満月の夜のパーティー、そこに現れ、あざやかに宝石を盗み出す怪盗! それこそがわたしの仕事じゃないか!!」
「それはそうかもしれませんが……」
ジョーカーは納得できない。クイーンの『怪盗の美学』とやらは理解できないが、今までの傾向から、何をしたいのかはよくわかっている。目立つこと、だ。
だがしかし。
「今回は、この書類を盗むことが第一の目的ですよね? 宝石よりも重要なはずです」
クイーンはがっくりと肩を落とし、嘆いた。
「ジョーカーくん……。わたしがメイドなんかしたら、美しすぎて屋敷の主人にプロポーズされてしまうよ。それに、何日もただのメイドとして働いて、本当の仕事は主人を倒して書類を奪う一瞬だけ。そのうえ、せっかくした仕事は、表に出すわけにはいかないときてる。こんなに地味でつまらない仕事はきみが適任!!」
ゆっくりと頭で考えて、ジョーカーは納得した。
「最初の勘違い発言はともかく、わかりました。ようするに、たくさん働いて、地味で、目立たなくて、自分にとっておいしくない仕事が嫌だったわけですね?」
ジョーカーの全身から殺気が立ちのぼる。
クイーンはまたルビーを放り投げて、キャッチする。そして親指と人差し指で挟んで持ち、ジョーカーに見えるように掲げる。
「ほら、ごらん。『エデンの贈り物』と呼ばれたルビーだよ。ピジョン・ブラッド。最上級だ。ちょっと小さいけどね」
「鳩の血、ですか。とんだ『エデンの贈り物』ですね」
兵器の開発の研究資料受け渡しの隠れ蓑に使われた宝石。オークションではこの名前で、この宝石しか出されていなかった。しかし、裏では……。
東洋のある国では平和の象徴とされる鳩。たくさんの血を流させる兵器。鳩の血。
「エデンの贈り物……真っ赤なリンゴは、知恵の実か」
宝石を見つめ、つぶやくクイーン。銀糸のようなふわりとした髪が縁どる美しい顔には、苦い微笑み。
「それにしても、クイーン……よくわかりましたね」
ジョーカーに向き直ったクイーンは、フフと笑った。
「わたしを見くびってもらっちゃ困るね。宝石ひとつにしては、値が違ったからさ。わたしの他にも、おかしいと思った者はいたんじゃないかな」
宝石に関心のないジョーカーは、そんなものなのかと、首を傾げつつも、否定はしない。
そして、クイーンに近寄り、トランクを差し出した。
「どうぞ。鍵は開いています」
「よくやったね。おりこうさん」
褒められたのに仏頂面でジョーカーは下がる。
「どうするんですか、そんなもの」
「こんなものの、使い道は限られてるからね……」
ふっと、クイーンが悲しげな笑みを見せた。その灰色がかった瞳が揺らぐ。
クイーンは書類を取り出し、サッと手を動かした。
ジョーカーが『あっ』という間もなく、書類は細かい紙吹雪となって床にゆっくりと舞い落ちる。
こうなると、ただの紙くずだ。
<クイーン!!>
突然、天井のスピーカーから声がした。人工知能RDの音声だ。
<何やってるんですか! 誰が片付けると思っているんです!? あなたが自分でやってくださいね!!>
「はーい……」
クイーンがしょんぼりとして返事をする。
ジョーカーは唖然としていた。
細かく切られた……クイーンの素手で物を切断する能力によって……もとは書類だったものを拾い集めるクイーン。
「……いいんですか? 売れば大金が手に入ったのに」
我に返ったジョーカーが、ふっと苦笑いして、クイーンに問う。
クイーンは首をすくめ、『やれやれ』と首を振って見せた。
「赤い夢を見るこどもたちに、いちばんいらないものだからね」
その顔は、満足げだった。
いらないもの……。
ジョーカーはふと思い出した言葉と、それが想起させるものに、苦い顔をした。
「どうしたんだい?」
それに気づいたクイーンが尋ねる。
床を這いずるクイーンを見下ろして、ためらいがちに、ジョーカーはゆっくりと口を開く。
「……いえ……屋敷の主人に『感情がない』って言われたのを思い出して……」
それは、また別の言葉を思い出させる。
過去、ある場所で、必要ないとされ、捨てさせられた、人間らしいこと。
取り戻せない笑顔。