恋わずらい
これは一体どういうことなのだろう。この状態は何なのだろう。
わからない。
蝮は戸惑う。
これまで、柔造とは何度もケンカをしたことがある。口ゲンカではおさまらず、双方ともに手が出たこともある。
でも、今は、それとは違う気がする。
柔造の様子が違う。
カッとなっているようには見えない。
それとは真逆の重々しい雰囲気を漂わせている。
柔造の足が動いた。
近づいてくる。
もとからあまり離れていなかった。すぐに距離は無くなってしまうだろう。
蝮は立ちあがり、逃げる。
柔造のいないほうだから、襖のほうへは行けない。
しかし、この部屋から出られなくても、使い魔である蛇を召喚する時間を作ることができればいい。
眼のまえには、行く手をふさぐように壁と障子窓がある。
あそこまで行ってしまったら逃げられなくなる。
蝮は両手を胸のまえで交差させ、詠唱を始めようとした。
その直後、肩をつかまれた。
柔造の手だ。
思わず、蝮は身体をビクッと震わせた。詠唱するために開きかけていた口を閉じてしまう。
召喚する間もなく追いつかれた。
気が動転し、捕まえられるのを避けるためだけに動く。
壁のすぐそばまで来ていた。
それに気づいたものの、勢いがついてしまっている。
立ち止まることができなかった。
かろうじて正面衝突は避けたが、左半身が壁にぶつかる。
「きゃあっ」
蝮は短い悲鳴をあげた。
衝撃が身体を走り、なにも考えられなくなる。
左半身を壁にぶつけたまま、下降していく。
畳へと座りこむ。
柔造がふたたび肩をつかんできた。
そちらのほうを向かされる。
眼のまえに、柔造の顔があった。
頭に血がのぼっている様子はない。
真剣な表情で、蝮を見ている。
その口は真一文字に結ばれている。なにも言わない。
蝮も黙っているので、部屋の中は静かだ。
部屋の外で降りしきっている雨音だけが聞こえる。
いや。
違う。
心臓が激しく打っている。痛いほどに強く打っている。その音が、まるで耳の横で打っているかのように大きく聞こえる。
この音が柔造に聞こえるのではないかと、自分の動揺を知られてしまうのではないかと、蝮は恐れた。
しばらくして、柔造が口を開いた。
「雨垂れ石をうがつ」
格言だ。たしか、柔造の好きな言葉であったはずだ。
「たいした力のない雨垂れであっても、長いあいだ同じところに落ちていれば、石に穴をあける、ってな」
たとえ小さな力でも根気よく続けていけば成果が得られる、という意味である。
しかし、なぜ今、その言葉を柔造は口にしたのだろう。
そんな蝮の疑問に答えるように、柔造は続ける。
「いつまで待ったら、石をうがつことができるんやろな」
その眼は真っ直ぐに蝮を見ている。
真剣すぎるほどの眼差しを向けている。
「短気な俺が何年も待った。十年以上、待った」
何のことを言っているのか。
わからない。いや、まったくわからないわけではない。
だから、柔造の言葉に打たれたように、胸が痛い。
「もう充分やろ、蝮」
柔造は決心した表情で告げる。
「俺は、おまえが」
「何年待っても、何十年たっても、生まれは変えられへん……!」
さえぎるように蝮は言う。
「お互い、家の血を守っていかんなんのは変わらへん」