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おやすみなさい、また明日

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数日を過ごしてわかった事がある。まずここはどこかしらのマンションなのだろう、という事。広さ凡そ十四畳程度のリビングダイニング(眠りから覚めたあの部屋だ)にキッチン。扉を開けて廊下へ出れば左右に二つの扉。左がトイレや風呂脱衣所などの水周りへ、右が八畳程の洋室に繋がっている。廊下の正面は玄関スペースで、その手前にもう一つ、左手側に扉が有りそちらは六畳程の洋室だ。内装を見るにリビングに近い八畳が柳の、玄関に近い六畳が赤也の部屋のようだ、とはすぐに判断がついた。二人が別々に暮らしていた頃(元より今もそのつもりであるのだが現実と相対して柳は過去形とした)に過ごしていたままそっくりの室内だったからだ。ベッドやテレビ、本棚、机、全て記憶にあるとおりの配置だ。赤也の部屋で試しに彼の本棚を覗いてみたら一番下の段に漫画本に紛れて数冊の文庫本が並んでいた。一冊を手に取って中を捲れば数ページの角が折れている。赤也の部屋に泊まった時に丁度読み終わってそのまま彼の部屋へ置き去りにした柳の本に違いなかった。栞を失くしてしまった為に適当にページの端を折って目印にしたのだ。変なところでアンタは乱雑だ、とそれを見た赤也が笑っていたのを思い出す。
リビングの室礼は互いの部屋を丁度足して二で割ったような気にさせる。色から配置から柳のとも赤也のともとれる趣味がそこかしこに伺えて、記憶にないというのに二人で顔突き合わせて相談しただろう姿が容易に想像出来た。あれは何色が良い、それはここに置きたい、などなど。確かにここは二人の家だ。自身で確認し集めたデータが柳にそう判断させる。
電気ガス水道、つまりライフラインは供給されていた。食料はどれだけ使っても、翌朝目が覚めると冷蔵庫や戸棚に丁度きっちり納まる量に戻っている。外に出られない扉。繋がらない電話。テレビもパソコンも無い。陸の孤島である、という事にさえ目を瞑れば生活に関してならば何の不自由も感じなかった。
だが、この不可思議な現象だけじゃない、それだけが理由ではない違和感が拭いきれず、柳はソファに深く腰掛けたまま僅かに項垂れた。
何かが足りない。そんな気がして毎日家中を歩き回っているのだが、未だにそれが何であるのか柳には思い出せそうもなかった。ここが本当に二人の新居だというのなら、有るはずの物がここには無い。何か、何かが欠けているというのに、しかしそれが何であるのか、思い出せない事に精神的な疲労が溜まる。
思考を整理しようと天井を仰いで深い溜め息を吐く。と、その前を赤也が小走りに駆けた。両手に濡れた洗濯物の詰まった籠を抱え、器用にベランダへ続く窓の鍵を開けている。部屋の探索や思案に明け暮れる柳と違い、赤也は状況を気にした風体も見せず、毎日忙しなく動き回っていた。「二人分の家事って、結構やる事多いんすよ」とぼやいていたか。この不思議な生活が始まってからの数日、家事のほぼ全てを赤也に任せきりにしていた。大学進学を期に一人暮らしを始めた柳と違い、ずっと実家暮らしである赤也が慣れているのも不思議なものだ。母親も健在で家事に勤しむ必要など無かっただろうにどこで覚えたのか。
赤也が駆けた先を追いベランダへと視線を遣ると、絵の具を塗りたくったような嘘くさい青空が彼の体の向こうに見えた。雲があれば季節を知る手掛かりになるかと考えたが生憎の晴天だ。洗濯するには良い天候で、それもまた皮肉なものだと思う。何もかもが上手く行きすぎていて気持ち悪い。
何もせずに居るから気が滅入るのだ。常々、柳には思考を先行させすぎて考えすぎるきらいがある。それは自覚していた。現状を打破するにも、解決の糸口さえわからないのだから仕方がない。思案を置き去りに、有体に言えば開き直る事にして柳は立ち上がりベランダへと出る。柳のシャツを片手に、細い針金のハンガーをもう片手に持った赤也が気配に気付き振り返った。
「手伝おう」
声を掛けて柳も物干し竿に並んでぶら下がるハンガーを一つ手に取る。横に立つ赤也が小さく笑って空気が揺れた。赤也の身長は大分伸びていて、未だ柳の方が若干上回る背丈ではあるが、昔のように互いに首を前後に傾けなければ視線が合わないという程でもない。それ程までに赤也が成長して居た事を今更柳は実感した。何センチ伸びただとか、調べずとも赤也自身が報告してくるので数字としては把握していたが、実際に並んで感覚で認識するのは別物だ。思えば赤也とこうして隣に並ぶのもどれ程ぶりなのか。学年が違う事だったり、大学への進学で離れ離れになった事だったり、交友関係が全く違う事だったり、柳がテニスを趣味に留め大会などの一線から退いた事だったり、もしかしたらもっと些細な事だったり、色々なものが積み重なって、二人で過ごす時間すら減っていく一方だった。
出会った頃は、付き合い始めた頃は、まるで世界の全てが互いであるかのように様々な思いも時間も共有していたというのに。何年も共に在る内に、言葉を交わす事すら日にちが開くようになっていって。最後にメールをしたのはいつだったか、電話をしたのは、会ったのは――……。
「じゃあこれ、干しといてくださいね。俺は次の分取ってきますから」
湿った冷たい感触に柳はハッとして意識を浮上させた。赤也が丸まったままの洗濯物を一枚、柳の胸に押し付けるように差し出している。反射で受け取ると、赤也は柳の感傷など気付いた様子もなくサンダルを放り出して部屋へと戻っていった。そもそも赤也は今だけに限らず始めから、この生活がスタートした日からずっと、柳が考え込むのを横目に気ままに日々を満喫している。焦る様子も考える様子もなく、家事をこなしたり柳に甘えてきたり適当に過ごしていた。考えたってわからないんだから考えない、とは赤也の昔からの持論だが、まさかこんな不可思議な状況に巻き込まれても尚その考えを改めないとは思いもしなかった。それとも、もしや。
「あ、ちゃんと皴、伸ばして干してくださいね」
洗濯機のある脱衣所へと向かう途中、赤也がくるりと振り向いて叫んだ。大声を出さずとも聞こえているのに。声を張り上げるのは苦手なので、柳は頷く代わりに軽く手を振って応えた。返答に満足したのか、赤也の姿が扉の向こう、廊下へと消えた。それを見届け手渡された服をひろげながら、思う。
これではまるで、本当に夫婦のようじゃないか!
作品名:おやすみなさい、また明日 作家名:385