おやすみなさい、また明日
「思い出しちゃったんすね」
暗かった部屋に明かりが灯り、柳は眩しさに眉を顰めた。振り向くと入口に赤也が立っていて、彼が電気をつけたのだと気付く。寝起きの悪い筈の赤也だが、今は夢現な様子もない。
「起きていたのか」
「うん。……ここんとこ、アンタ大人しかったし。動くならそろそろかなって」
寝たふりしてた、と続いた言葉に苦笑が漏れる。やはり自分よりも他人の方が自身の事を見抜いているものなのかもしれない。赤也の勘は見事に当たったのだから。
柳は手元の紙切れを一枚ずつ広げて床に並べた。労わるような優しい手付きでその背に触れながら赤也も並んで膝をつく。
「お前は、最初からわかっていたのか?」
隣で僅かに空気が動く気配がして、赤也が頷いたのだろうとわかる。
「俺、アンタより先に目が覚めたんすよ。自分の部屋で寝てて、すげえビックリした。だってあの部屋、俺が日本に居た頃の部屋じゃん。実家に住んでたガキの頃の部屋。もう俺あの部屋にも日本にも居ねえのに何でって……それで、夢なんだってわかった」
ぽつりぽつりと赤也の唇から零れていく言葉たちが、酷く惜しく思えて柳は顔を上げ彼の顔を見詰めた。一言一句聞き漏らさないように、全身で赤也の言葉を聞き止める。
「俺の夢なのかなって最初は思ったんすよ。アンタを諦めきれなかった俺のみっともねえ夢なのかなーって。でさ、リビング行ったらアンタが寝てて、そんで目を醒ました時、何も覚えてないんだってわかって、気付いた。ああ、これって多分、アンタの夢なんだって。アンタが俺をここに呼んだんだよ」
雑誌に載っていた、小さな小さな、見落としてしまいそうな程小さな記事の切り抜き。名前と結果の数字だけしか並んでいないような豆粒程の切り抜きすらもあった。海外のトーナメントで戦う赤也の道程を追うかの如く寄せ集めた紙片だ。
そして、一枚の写真。たった一度だけ、地方紙でやはり小さくだが取り上げられた時に記事と並んで掲載された、ラケットのグリップ握り締め打球に喰らい付く瞬間の赤也の写真だ。同じように海外へ渡った友人など使える限りの伝手を活用してどうにか日本へ送って貰い手に入れた物だった。
「アンタが起きるまでさあ、俺もここん中色々探し回ったんすよ。で、すぐわかっちまった。この部屋には何も無いって。俺とアンタと居るのに、テニスに関する物がなんにもないんだ。ラケットも、ビデオも、写真も、雑誌も、何にもねえ。アンタがそう望んだんだってわかって、俺、すげえ怖かった。アンタはプロ目指したりとかしなかったけど、それでもテニスすっげえ好きだって、そんくらいは知ってたよ。だから怖かった」
二人はあの冬の日に、終わっていた。歩み寄る事も出来ないまま赤也は卒業を待って海外に渡り、どちらから連絡する事もなく既に数年が経っている。もう全ては過去になっていたのだと、二人が共に在ったのは昔の事なのだと、床に並べられたそれらが時間の流れを教えている。
テニスがあるからこそ二人は出会い、テニスがあるからこそ二人は離れた。それが紛う事のない現実であり、真実だった。
赤也の表情が歪む。柳の背に添えられた手が小刻みに震え、一度開きかけた唇が閉じられ、膝立ちになっていた腰が落ちてそのままに深く項垂れる。この数日、常に落ち着き払っていた赤也が見せた感情の波に触れ、考えるよりも先に体が動いた。柳の両腕が伸び赤也の肩を己の胸へと抱き寄せる。
「現実とか、テニスとか、全部捨てて、アンタは俺を選ぶのかって。それが……それを、嬉しいって一瞬でも感じた、自分が怖かった」
赤也の声が震えていた。激昂するでもなく、むしろ感情を抑えようとして堪えきれずに溢れ出た言葉だ。赤也のそんな一面を、柳は初めて見た。赤也はいつも、感情のままに振る舞い、態度に言葉に表し、だからこそ柳は自分を抑えて接するようにしてきたのだ。赤也が好意を形にしてくれるから、それを理由に、いや、それに甘えて自ら伝える事を怠って、そうして終わらせてしまった。
「どうすれば良かったんですか? もっと優しくすれば良かった? アンタが思い詰める前に、気付けたら良かった? アンタの気持ちがわかんなくて、俺は、いっつも……っ」
そこで赤也は言葉に詰まり、声が途切れた。堪えきれない嗚咽が乱れた呼吸になって零れ落ち、柳のシャツを濡らす。何を言えば良いのか。何を伝えれば良いのか。どうすれば心の内を見せられるのか、その方法すらわからずに途方に暮れる。何年も共に過ごし、何年も愛されて、それなのに今、愛の告げ方一つ柳はわからない。
あやす事しか出来ず震える背中を撫でていると、ズッと大きく鼻を啜る音が聞こえ、腕の中で身動ぎしたかと思うと赤也の腕が伸び、床に広げたままの写真を手に掴んだ。
「アンタ、こんな写真持ってたんすね」
ちょっと予想外、と赤也は震えが治まらないままに言葉を発する。柳が躊躇っているのを察しているのだろうか、涙声のくせに赤也は気丈に笑ってみせた。
きっと、この世界はもうすぐ終わる。お互いに夢なのだと気付いてしまったのだから、夢とわかれば後は醒めるだけなのだ。現実ではもうこうして言葉を交わす事さえなく、触れ合う事も叶わず、全てが終わってしまったものに過ぎない。だというのに、夢の中ですら何も出来ないままに終わってしまうのか。
「俺、は――……」
柳が唇を開く。口の中がからからに乾ききって言葉が出てこない。伝えるだなんて一度もした事がない。伝える必要など無かった。赤也が全て形にするから、自分はそれを抑える側で居れば良いと思っていた。
「俺は、確かにこうして共に暮らせたら、お前の傍に居られたならと、願ったのだろう。いや、確かに願った。お前と離れたこの数年間、お前を想わなかった日はない。だからこそ今このような事になっているんだろうな。……お前を巻き込んで、すまない、と思う」
けれど違う。赤也は、赤也も、不安だったのだ。不安だから柳は重石にならぬよう心を隠し、不安だから赤也はいつも繋ぎとめようとしがみ付いていた。赤也が疲れ、その手を離した時に、どうして掴んでやれなかったのか。夢に強く願う程に、今でも赤也を求めているのに、それを言葉にしてやれなかったのか。
腕に触れる温もりに気付いて、何時の間にか伏せてしまっていた視線を上げる。赤也が真っ直ぐに柳を見上げ、背に回された腕を優しい力で降ろした。そして柳の指先に赤也の掌が重ねられる。咄嗟にそれを握り返すと、赤也が涙の滲んだままの瞳を細めて微笑んだ。
「あのさ、柳さん。俺言ったでしょ。俺は、この夢っつうか何つうか……変な世界がさあ、アンタの望んだ事なんだってわかった時、嬉しかったんだ。アンタは言葉にしてくんなくて、好きだとか欲しいとか全然言ってくれないから、俺ばっかアンタを追っかけてるみたいで悔しかったよ。けどさ、アンタはそういうのが得意じゃねえだけで、本当はこんだけ俺を求めてくれてたんだって、すっげえ嬉しくて、だから、終わらせたくなくて、俺、言えなかった。夢なんだよって、俺達別れたのに、なんて言えなかった」
作品名:おやすみなさい、また明日 作家名:385