もう二度と…
動揺したのに気付いたのか、柳瀬は言葉を続けた。
「まだそこまで考えられないか。
とりあえず千秋が記憶を戻さない限り、
なんとも言えないよな」
「あぁ…そうだな」
「ま、千秋が記憶を取り戻さないと仕事も出来ないしな。
他の先生の仕事を入れるかな」
「お前も生活かかってるから、大変だな」
「お前ほどじゃないけどな。
千秋は看板作家だし、月刊エメラルドも大変だな」
「うちは有能な編集が揃ってるからな、どうにかなるさ」
「あっそ、じゃあな」
病院の出入口で柳瀬と別れる。
まさか柳瀬から俺と吉野の事を指摘されるとは思わなかった。
今日の吉野の反応を見て、
やっぱり黙ってた方がいいかも知れないとも感じる。
でも本当は言ってしまいたい、俺はお前の恋人だと。
しかし記憶のない吉野に告げるのには、
あまりにも重い事実だ…
これが男女なら、懸命に訴えてもおかしくない。
ただ俺たちは男同士…いきなり事実を告げるのは酷すぎる…
やはりしばらく様子を見ることにしよう。
まだ記憶が戻る可能性もあるのだから…
[吉野side]
目が覚めると、そこは病院だった。
俺は吉野千秋と言う名前らしい。
らしいと言うのは、自分が記憶を失くしてしまったからだ。
昨日目を覚ました時、俺を心配そうに見てる人が数人いたが、
誰一人思い出せない。
自分の母や妹とだと言う人を見ても、全然記憶になかった。
それもそうか…自分自身の記憶すらないんだから。
しばらくテレビを眺めてると、ノックと共に扉が開いた。
顔を出したのは、昨日病室にいたうちの一人だった。
唯一の男の人なので、記憶にある。
美人って言ったほうがよく似合う容姿をしていた。
「よう千秋、起きてたのか。気分はどうだ?」
「少し頭痛がするくらいで、後は大丈夫です。
失礼ですけど…名前は何とおっしゃるんですか?
あと俺とはどんな関係だったんですか?」
「俺の名前は柳瀬優。
お前とは中学からの付き合い、親友だよ。
後はお前の仕事の相棒かな?
やっぱまだ記憶は戻ってないか…」
「仕事…?俺は何の仕事してたんですか?」
「少女漫画家だよ、しかも売れっ子の」
「俺が漫画家?!しかも少女漫画…」
教えられた事実にびっくりしてしまう。
漫画家なのも驚きだが、それが少女漫画とは
それに漫画家なら、連載作品があるんじゃないか…?
今の自分に漫画が描けるとは思えないし、
一体どうしたらいいんだろう…
「まぁ記憶がないんじゃ、
自分が漫画家なのは信じられないよな。
とりあえず今は体を治すことを考えろよ。
担当の羽鳥が仕事の方はどうにかするさ」
「担当の人は羽鳥さんって言うんですか…
悪い事しちゃったな…」
「だから気にするなって、こればっかはしょうがないしな」
それから柳瀬さんに昔話や今の話を色々聞かせてもらった。
聞いたからすぐに記憶が戻る事はなかったが、
自分が学生時代にどんな事してたのかとか、
今はこんな漫画にはまってるのかとかを聞くと、
自分の事なのに逆に新鮮で楽しかった。
「じゃあ千秋、今度(ザ☆漢)持ってきてやるよ」
「ありがとう!ちょー楽しみ!」
と、そこへ扉のノック音が聞こえ、男の人が入ってくる。
昨日は見なかった顔だ…誰だろう?
「吉野、体調はどうだ?」
名前を呼ばれたという事は、この人も知り合いなんだろう。
「はい…少し頭が痛みますけど、後は特に大丈夫です。
…失礼ですけど、どちら様ですか?」
そう答えたとき、相手が少し傷ついた顔をした気がした。
しかし、すぐに普通の表情に戻る。
すると柳瀬さんが説明してくれた。
「こいつは羽鳥芳雪、おまえの幼馴染で、
俺とは中学からの付き合いだ。
後はさっき言ったけど、お前の仕事の担当もしてる」
この人がさっき言ってた仕事の担当の人なのか
しかも幼馴染だったとは…やっぱり全然思い出せない…
「幼馴染…すみません、全然覚えてなくて…」
「気にするな、自分の事も思い出せないんだろ?
今はゆっくり休め」
その気遣いに胸がジーンと熱くなる。
そして何故か少し泣きたい気分になる…何故だろう…?
「ありがとうございます。
ところで今、仕事の担当って言ってたんですけど、
俺が少女漫画描いてたって本当ですか?」
「あぁ本当だ、柳瀬に聞いたのか。うちの雑誌の看板作家だよ」
「そうなんですか…すみません、今月も仕事ありましたよね?」
「来月号は休載にしたよ。
どちらにしても今の状態だと、無期限休載かも知れないな。
仕方ないけど、こればっかはしょうがない。
今は体を治すことだけ考えろ」
「…はい」
俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
きっと俺の作品を楽しみにしてる人がいるかもしれない。
その人たちの事を思うと、やりきれない気持ちになった。
そして羽鳥さんは帰ると言いだし、
柳瀬さんも帰ることになった。
「じゃあな、千秋」
そう言って柳瀬さんと羽鳥さんが出ていくと、
一人きりの病室で寂しさが襲ってきた。
記憶を取り戻せない事への焦燥感なのか…
それとも何か違う気がする。
羽鳥さんがさっき一瞬見せた傷ついた顔。
あれを思い出すと、胸が締め付けられる…
俺は一体どうしてしまったんだろう…
[羽鳥side]
〈一週間後〉
今日で吉野が入院して一週間。
頭をぶつけたという事で、今日もう1度精密検査をした。
これで異常がなければ、退院ということになる。
今、吉野はベッドで気持ち良さそうに眠っていた。
結局記憶が戻ることなく、時間だけが過ぎてしまった…
しばらく吉野の顔を眺めていたら、
触れたくなってしまった。
さすがに唇にキスをするのは、躊躇われる。
それならと髪をかき上げ、額にそっと口づけた…
と、その時、扉の方からガタ!と音が聞こえた。
そちらに顔を向けると、
千夏がびっくりした顔で立っていた。
「千夏ちゃん…」
声をかけると千夏は我に返り、
駆け出してどこかに行ってしまった。
急いで後を追う。
途中で看護師さんに廊下を走らないで下さい!と怒られたが、
どうにか彼女に追いついた。
「千夏ちゃん、待って!」
「芳雪くん…」
「ちょっとこっち来て」
彼女を人が少ない庭の方へ連れ出す。
まさか彼女に見られるとは…でも言い訳するつもりはなかった。
「芳雪くん…お兄ちゃんの事が好きなの…?」
「あぁ…好きだよ」
「芳雪くんってホモなの?あれ…?
でも彼女がいた時期もあったよね?」
「ホモなのかは分からない。
ただ俺は物心ついた時からずっとあいつが好きなんだ」
「…ちなみにお兄ちゃんは芳雪くんの気持ち知ってるの?」
「知ってるよ。前に気持ちを伝えたんだ。
最初は驚いてたけど、その後受け入れてくれた」
「でも今は覚えてないよね?どうするの…?」
痛い所を指摘されてしまう…
でも俺もどうすればいいか分からなかった。
「…伝えようか迷っていたけど…、
このまま記憶が戻らなければ、
言わないでおくかもしれない」
「……私じゃダメ?」
「え?」
「私もずっと芳雪くんが好きだったの!