メフィスト・ワルツ
イタリア、芸術都市フィレンツェ。
三年前、日本はおろか、国内の旅行にすら出かけた事のなかった菊は、養父の元を出た後そこを訪れた。特に何の計画も立てず、本当にただの気まぐれだった。今まで使い道がなかったので金だけはいくらでもあった。やろうと思えば宮殿のようなホテルにだって泊まれたが、菊は裏路地にあった潰れかけたホテルを選んだ。
あえて選んだというよりは、選び方がわからなかっただけでそのホテルの従業員の「飯だけは旨い」という言葉を信じ込んでそこに入っていった。
そこで出会ったのが「彼」だった。
「彼」と呼ぶには語弊があるだろう。
する事もなくホテル内にあるバーに赴き、注文も適当にして手持ち無沙汰に鳴り、案外清潔にしてある店内を見渡した。すると薄暗い店内の奥に金色に光る物を見つけたのだった。それは菊にとってこれまで嫌という程見てきた絵の額縁だった。
自分の絵に嫌気がさして日本を飛び出したが、他人の絵には興味があった。菊は適当に頼んだせいで手がつけられないでいるブランデーを、隣に座っていた昼間から酔いつぶれている紳士風(服装が崩れていなければ)の男に譲り席を立った。
"彼"に会ったのはその瞬間だった。
その絵は寂れたバーには似つかわしくない、細やかな色使いが印象的な肖像画だった。点描のようにも見えるふわりとした着色は長年の埃によって傷だらけになった額の奥でも、ぼんやりと輝いているようでその額の中だけが異世界のように思えた。
菊はその絵を穴が開くほど見つめた。
これまで絵は見れるだけ見てきた。他人の絵を裁く為、自分の審美眼を磨く為に。その世界では権威とも呼べる画家達の絵だって見てきた。それでもこの絵ほど菊の心を大きく揺さぶったものは一つだってなかった。
絵の中には金髪の少年が描かれており、いかにも真面目そうな風貌をしているが、こちら、つまりは絵の書き手に向かってはにかむ様に微笑んでいる。それが、狂おしいほど愛おしかった。
「初恋の人なんやて、それ」
「!?」
その絵がはちきれんばかりに見つめていた菊の背後から、不意に話しかけられ菊は心臓がずいぶん動いた。
「あの……」
「綺麗やろ? 俺の知り合いが描いたんねんで」
声の正体は従業員の男で「飯だけは旨い」と菊を誑かした張本人だった。実際旨かったが。
青年はぼんやり歩いていた菊を見るなり日本語で話しかけてきた。聞くと少しの間日本に居たことがあるらしい。居た場所が関西であることは確実だと菊は思った。
男が馴れ馴れしく話しかけてきて、人との付き合いが苦手というか億劫さを感じる菊は少々気後れしたが、それよりも確かめたい事があったので菊は言葉を続けた。
「お知り合い……なんですか? その方は有名な画家の方ですか?」
「いやー有名ってわけやないよ。まぁ、ここらでは有名やけどなあ。でもまだ学生のひよっ子ちゃんやで」
「学……生……」
「そうそう。この絵もなぁ、その子が13だか14だかの時に描いたものなんやで。こんだけええ出来やから、色んな賞に応募してみいって偉い人が薦めとったんやけどね。どうしても手元に置いておきたいからってこのホテルに寄贈してくれたん」
「では、世間には出回っていないのですか?」
「せやねぇ。見てくれるのはここにたまーにくるお客さんだけや」
「そう……なんですか」
その後菊は絵を見続けた。言葉で表現するなら「いつまでも」見続けた。最初は立って見ていたのだが、いつの間にか椅子に腰掛けていた。従業員が持ってきてくれたようだった。
窓から覗く空が黄金色に輝き、いよいよもってバーの照明が薄暗く感じ始めた頃、それまで絵を目の奥に焼き付けんばかりに見続けていた菊に従業員の男は話しかけた。
「お兄さん、絵、描くん?」
それまで店内に居座る菊に何も言わずに、あまつさえ椅子まで差し出した男は何かを感じ取ったのだろう、菊にそう言ってみせた。
「……ええ」
菊はゆっくり男を振り返ると短くそれだけ答えた。
「その絵、気に入ったんやね」
「……とても」
言いながらも再びその絵に視線を戻す菊に、関西弁の男は小さく溜息をついた。そして、続けた。
「そんなら、明日もこのバーに来ぃや」
「……?」
「この絵をこさえた子に会わせてやるで」
「………………え?」
それだけ言うと男は仕事、仕事とぼやきながらバーの奥まで引っ込んでしまった。再び男が菊の元に来る事はなく、菊も絵を惜しみつつも部屋に戻った。
亜麻色のふわりとした髪の青年だった。少年とも見えなくもない。どちらにせよ、実際の年齢は18で菊よりかなり年若かった。件の従業員に紹介されると、初対面の菊にも何も臆することなく人懐こい笑顔を見せる。言葉が通じないので何を言っているかは一切不明だが、歓迎している事だけは確かだ。
バーに来いという言葉に素直に従った菊は、紹介されたこの青年がこの絵を描いたとは到底予想していなかった。絵を描いたのは女性だと思い込んでいたからだ。「初恋の人」というモチーフに少年を描いているのも理由だったが、絵を見てなぜか女性が描いたと思い込んでいた。その青年は線が細く華奢な体つきをしてはいるが、骨格などは菊よりもしっかりしている。中性的ではあるが女性的ではない。それがひどくひどく、菊の興味をそそった。
菊がこんなにも他人に強く興味を持ったのははじめてだった。というより、絵の外の人間に興味を持ったのははじめての事だ。絵を褒められて隠すこともなく嬉しそうに笑う青年を前に、菊は自分では決して掴めない何かを見出そうとしていた。この青年の中に。
本田菊がフィレンツェに移り住んだのは、この後の事だった。