メフィスト・ワルツ
「菊、手紙来てたよ」
「ああ、ありがとうございます」
「またメール返してないんでしょ……」
「……すっかり忘れてました。機械は苦手なんですよ」
「でも駄目だよ、ちゃんとお父さんにお便りしなきゃ」
「そうですね、すみません」
養父からはたびたび息災を尋ねるメールが届く。しかし菊はそれの返信を滞ってばかりだった。メールの返信がいつまでも無いと、養父は痺れを切らして直接便りを送ってくるのだ。
機械に弱いというのは事実だ。毎日筆や鉛筆や紙ばかりを相手にしてきたので、電子工学というものがどうしても肌にあわなかった。が、それ以上に彼をコンピューターの前に向かわせようとしなかったのは、単に養父への後ろめたさからだった。今まで散々世話になっていたのに、突然絵を描きたくないなどと言い出し、日本を出るとまで言った。そして、養父はそれについて一つも責めたりはしなかった。
だが、時々、というよりは毎日のようにメールをしてくる。内容は案外簡素なものだ。体調は平気か、とか何か不自由してはいないか、とか。内容はいつも菊の安寧を尋ねるものばかりで、しかし、その気遣いは菊にとっては責められるよりも辛いものだった。
日本のメディアから本田菊の名が聞こえなくなってから、幾年か経とうとしていた。日本芸術が生んだ神童、とまで囃し立てられた名声は本人が海外に出ていったと同時に暗雲の中に消えた。ある人は海外に逃亡したとも噂した。もちろん逃避行などと言われる謂れは無いのだが、菊が絵画の制作を滞ってから随分経っての事だったので、そう言われても仕方がない。と、菊は思っている。
しかし、菊はまたここフィレンツェで筆を取っている。名を変えて絵を売りに出しているのだ。仕様のないことだった。彼は絵を描くこと以外何もしたことがなかったのだから。
活動を再開した事は養父にすら告げていない。メールや手紙には時折デッサンの練習をしているとだけ伝えてある。彼は菊の絵が自分の知らないところで他人の手にまわっているのを知らないのだ。最も、知ったとしても怒ったりはしないだろうが。
生活費などは知人の運営するホテルのバーで働き、それで賄っているとも伝えてある。それには一部嘘ではない。働いているのは事実だ。だがホテルも盛況しているとは言いがたいし、せいぜい菊一人が細々と生活を営んでいくくらいの賃金しか貰っていない。それでもよかったが、菊はどうしても金が入用だった。だから絵を売る事を選んだ。
しかし、名を変えようとも見る人が見れば誰が描いたかは一目瞭然だった。だから買う者にはそれを世に出さない事を条件として売りに出した。
物を売る側の人間として、それは横暴とも言えるものだが、菊は自分がまた制作活動をしている事を有識者らに知られるのがどうしても嫌だった。今まで菊が接したことのある画商や画壇に知られずに絵を売ることは容易ではなかったが、日本から出るとあまり名は知られていなかったので「絵」だけをディスプレイにして売る事は出来た。逆に言えば日本では多少名の知られている「本田菊」というネームバリューを売り物に出来なかった。ありていに言えば苦労したのはそちらの方だった。
「だからかってな」
「……?」
「思い切りがすぎてるだろ」
「はい?」
「この状況だ」
「……あいにく、何を仰りたいのかがさっぱりわからないのですが」
「お前が俺の隣で下着だけで寝てる事がだよ」
「………それが、何だと言うのですか?」
フィレンツェで初めて得たパトロンは金髪で碧い瞳のイギリス人男性だった。
菊の働いているバーに入り浸っていて、昼間からスコッチだのワインだの飲んで潰れてはホテルのオーナーのアントーニョ--ただの従業員だと思っていたが、オーナーだった--にどやされて席を立っていた。いつも一人で、昼夜問わずぶらりと訪れるものだから菊は最初は無職だと思っていた。
いつも黙りながら飲んでそのうちカウンターで寝てしまう。アントーニョに一喝されてすごすごと帰っていくので、菊は彼がまともに会話してるのを聞いたことがなかったのだ。
そんな男に接近したのは、ある日の事だった。菊がバーに掃除に入るといつものカウンターに、まともな服装できちんと座っている彼が居た。珍しいな、と思いつつ掃除を開始していると男が話しかけてきた。それを見かけたアントーニョが菊を男に紹介し、ほぼ押し付けるようにこの子の絵を買えとまくしたてた。「金なら腐るほど余ってるんやろ?」その言葉の方に菊は驚いた。
金髪の男は芸術に興味がないと言い一度は断った。が、アントーニョがあまりにしつこかったので、それを振り払う目的のつもりで条件を降りかけた。
菊が自分と同衾すれば絵を買ってやってもいい、と。
あくまで冗談と解っていたがアントーニョはその下品な申し出に、男を罵ろうと口を開いた。だが、その口が閉じれなくなってしまったのは、菊がそれを了承したからだった。
「俺は冗談のつもりで言ったんだがな」
「日本人にはあまりそういう冗談は通じませんよ」
「だからと言って本当に寝る奴がいるのか」
「一度了承したものを無碍にするのは美徳に反します」
「美徳、か。お前ら芸術家はどうしてそう気難しいんだ」
「私には、それしかありませんから……」
「…………そんなに大事か」
「何がですか?」
「お前の同居人の小僧だよ」
「フェリシアーノ君のことですか?」
「俺がお前にやってる金はほとんどあいつに使ってるんだろう」
前途のように、菊はホテルで働いている。それはホテルの経営状況もあって
裕福な生活を望めるものでもないが、菊が一人で食べるだけはあるのだ。菊は絵を描く以外は至って質素だ。絵以外の趣味はないし呑代も煙草代も出ない。食事も多く取る方ではないからさほどかかりはしない。だからホテルの賃金だけで生活費は賄える。それでも絵を売ってまで金を作りたかったのは同居人のフェリシアーノの為だった。
フェリシアーノはフィレンツェの美術学校に通っている。だが菊と同じで幼い頃に両親を失くし、一つ違いの兄が居るだけだった。古い本屋を経営する若い夫婦に引き取られたが、その夫婦も裕福な方ではないので学費を出す事は不可能だった。絵の才能を認められ、奨学金で入学するまでにこぎつけたが、絵の勉強をするには何かと物入りで、菊と会うまでは絵の練習よりも働く事を優先させていたのだ。
「私が彼の年齢の頃は日が出ようが日が暮れようが絵を描いていました。彼のような才能を持ってる方はあの年で燻っていては駄目なんです」
「だからお前が体まで売って金を造ってるのか。ますます理解できないな」
「どうしてですか」
「ガキの絵を売らせればいい話じゃないのか? 腕はそれなりに認められてんだろ」
「…………それは私が嫌なだけです。若いうちから名前が売れることはよくないから」
「わがままだな」
「その通りですね」
菊は、笑顔を造るのが下手だった。一見見れば完璧な笑顔だが、完璧すぎて造形されたものというのが解ってしまうのだ。菊は、その笑顔も嫌いだった。それでも笑ってしまう自分がもっと嫌いだった。
アーサーはその笑顔ですら美しいと思った。
「だったらそれこそ、ガキに体遣わせりゃいいんじゃねーのか?」