永遠の答え
怖い。
吊り橋の下は、谷間だ。細い川が流れている。
とはいえ、吊り橋はしっかりとしていて、それほど揺れたりはせず、高さもたいしたことはなく、川も浅いものだったが。
怖い……。
その谷間には、何やら黒いもやが見える。
雪男には、それが見えた。
いくらこどもの遠足に用いられる程度の散歩コースに近い山とはいえ、遭難者もいて、自ら進んで命を絶ちに来た者などもいて、そういった死んだ者たちの霊が、こういう谷間に集まることは多いのだ。
うごめく黒いもや。
まるで、今にもその黒い手をのばして、橋を渡る者の足をつかみ、引きずり、飲み込もうとでもいうように。
……怖い。
雪男は眼下の光景に青ざめ、震える。
死んでなお、あのようにもがき苦しむ者たち。その集まり。
もし、ここから落ちてしまったら、自分も、あそこに……。
ああいうふうに。
そして、あのもやは、確実にそれを望んでいるのだ。仲間を欲しがっている。
無事に渡りきらなければ……。
みんな先に行ってしまった。中には、雪男のことを臆病だと嘲笑う者さえいた。
どうでもいい。
よくこんなところを通れる……。
兄の燐にしたって、はしゃいで、吊り橋の上を飛んだり跳ねたりして、遊んで先生に叱られていた。
そしてさっさと渡っていってしまった。
橋にしがみついて動けないでいる雪男には気付かず。
雪男は震えながら小さく息を吐き出す。
まったく、兄と自分とは、なんという違い。
……でも、それは仕方がない。
見えないのだから。
もし、『これ』が見えていたら、あんなにも無邪気にはしゃいで渡れるかどうか……。
いや、兄だったら……。
思考はそこで途切れた。かけられた声によって。
「雪男!!」
……兄、さん……?
とうに先に行ってしまったはずの兄の燐の姿が見える。
こちらに駆け寄る兄の姿が。
橋の入口で、木の手すりにつかまり、動けないでいる雪男のもとに、燐が駆け寄る。
手を開いて、腕をのばして。
にかっと笑って言う。
「雪男、つかまれ! 一緒に渡るぞ!!」
後ろから走ってきた先生が橋の向こうでおろおろしてこちらを見ている。
雪男は兄の手と、橋の向こうの先生と、橋の下を順に見る。
渡りたい、渡らなくては。でも……。
橋の下に、黒いもや。
「雪男!」
燐が真剣な顔をして言う。
「目ぇつぶれ! 見えなきゃ怖くねーだろ!?」
雪男はおずおずと手をのばし、兄の手を握る。
ぎゅっと握りしめられる手。
ぐいと雪男の手を引っ張って立ち上がらせながら、燐はもう一度強く言った。
「いいか、怖いなら目ぇつぶってろよ! 兄ちゃん、連れてってやるから。大丈夫だからな」
きょとんとしていた雪男は、手を握ったまま橋を渡ろうと歩き出す燐に、慌てて目をつぶった。
見えなきゃ怖くない……。
頭の中で兄の言葉が繰り返される。
見えなければ怖くはない……。
ぐいぐいと手は引っ張られ、雪男は目を閉じて何も見えないまま、どんどん前に進む。
兄についていくことに一生懸命で、転ばぬように歩くことでせいいっぱいで。
いつしか、橋の下の黒いもやも関係なくなって。
……兄がいてくれる。
手をつないでくれる。
この手があれば、何も怖くない。
橋の向こうにたどりつくと、先生が待っていて、抱きしめてくれて、めずらしく兄の頭を撫でて。兄は得意げな顔をして笑っていて。
……そうだ。あの頃は、いつも兄が守ってくれた……。
僕の、心までも。