完璧な灰にはなれないけれど
窓辺にたっぷりと飾り布をあしらった豪奢な室内を、バルコニーから射す西日があかあかと照らす。
その陽射しにドレスをも朱に染まして静かに立ちつくすエリンシアは、部屋を中心から二分するように走る赤い絨毯の一端におり、もう一端をアイクが踏みしめたときに瞼を伏せた。木製の、重厚だが簡素な椅子にはつかず、その傍らで俯いている。
「団の連中から連絡が来た。トハの件に片がついたそうだ」
厚い絨毯はアイクの軍靴から音を奪う。廊下を行き交う人々の気配、城下には金槌や鋸がまだ休みを知らず振るわれて、鈍い足音を一層聞き取りづらくさせた。それが一因するのかどうか、アイクはいくら足を動かしてもエリンシアのもとへ辿りつけない錯覚を抱く。ほんの十数歩、その半ばを過ぎているというのに距離を縮めた実感がないのは、エリンシアが反応をみせようとしないからかもしれない。声をかけても返答がなく、今までにない無反応に困惑する。とうとう俯く王女の目の前へ至ると、アイクはゆるく首を傾けた。
項垂れるエリンシアは肌さえ夕日に焼かれている。自分もそうなのだろうか。
「……エリンシア?」
なおも返答なく、アイクはいよいよ彼女を訝しむ。さては体調でも悪いかと膝を曲げ下から覗きこむようにすれば、エリンシアは琥珀色の瞳がこぼれ落ちそうなほど見開き息を詰めていて、様子を窺ったアイクのほうがぎょっとしてしまった。
「大丈夫か?」
思わずその格好のまま問いかける。
アイクの知る限り、エリンシアは他人に弱味を見せることを恥だと思うところがあり、自分よりも他者へと気を配る、情動ゆたかな心優しい娘だ。国政を預かる立場に常に恐怖し、強くあろうともがく真摯な娘だ。そんな彼女がここまで怯えている理由はなんであるのか。
トハの事件についてならば今しがたアイクが報告したばかりであり、エリンシアが怯える必要はないだろう。彼女の望むとおりに事が運んだのだから、これから彼女はかの港町の復興に思うさま力をそそげばよい。まさかそれにけちをつけるほど貴族たちが愚昧でもなかろう、と、思いたい。
すると残った要因といえばアイクしかないのである。
何かしてしまったのかまったく自覚はないのだが、ミストに言わせると「お兄ちゃんは、にぶすぎるの!」らしいので、アイクがそれと気づかぬうちにエリンシアを傷つけている可能性もなきにしもあらずであり、すると困惑は動揺に変わる。幸か不幸か常日頃から感情の汲みづらいと評される顔はぴくりとも表情を変化させなかったが、胸のうちはざわついた。
「最近調子が悪そうなのは、俺が原因なのか」
ばち、と音のしそうな勢いで大きな瞳が瞬きをする。焦点をアイクへ合わせるやいなやエリンシアは大きく、髪を振り乱すほどの強さでかぶりを振った。
「そ、そんなこと! 違うんです、アイクさまのせいではなくて!」
「じゃあ何があんたをそんなにしょげさせてる?」
「それは……」
クリミアでもっとも高貴な椅子に座する娘は頼りなげに眉を震わせ顔を背ける。かつて行軍中よくしていたように胸の前で握りしめられた手も、噤んだままの口と同じようにかたくなだ。エリンシアの前に片膝をつき、その緊張が解けるまで動かない姿勢をとったアイクは、今日こそはという決意を胸底にもっている。ルキノから説明を受けたとはいえわけもわからず傭兵団を貸してトハの乱を鎮圧させ、あげくアイク本人はその理由を当人の口から知らされもせず放置されていただけでは、エリンシアとアイクを信用してメリオルを発った仲間たちにあまりにもすまない。
かすかに息を吐き出してエリンシアの意固地な唇を見上げると、アイクはそっと目を眇めた。
「エリンシア女王。……俺は、爵位をあんたに返上したい」
西日に燃えるばら色の唇が薄くひらいて震える。
涙を予感させる不穏にアイクは身構えたが、予測と違えてエリンシアは、穏やかでまっすぐな視線を返してきた。わななく口元を引き締め、必死に抑えこむ動揺をアイクに探られまいとする。
「それは……それは、私の不甲斐なさが原因ですか」
「違う。あんたはよくやってる」
断定は思いのほか強い調子でアイクの口からこぼれてしまった。
「他の誰があんた以上にうまくこの国を引っ張っていける?」
「では、なぜ……と、伺ってもよろしいですか」
「……トハの一件があって、あんたともしばらく会えなくて、その間少し考えた」
エリンシアとともに成長していくためにアイクは今の地位にとどまることを選んだ。将軍なんて柄でもないのは自分が一番よくわかっていて、だから周囲から何を言われても事実なのだからと、同じようなことを繰り返す彼らに疲れこそすれ腹は立たなかった。
けれど怒ったほうがよかったのかもしれないと、先日ルキノから聞かされたエリンシアと貴族の間にある確執を聞いてから感じている。
彼らはアイクの無反応に痺れを切らし、とうとう女王へ直接不満をぶちまけに行った。エリンシアが感じた不快はアイクにふりかかるべきもので、彼女が気に病むことはない。ましてやアイクをはばかる必要などあろうものか。
トハ鎮圧の報をもって他の仲間より一足先に帰還したティアマトとセネリオにも、爵位返還については相談してある。作戦会議ではたびたび意見を衝突させるふたりだったが、今回は珍しく一致した意思を示した。
「俺の名が貴族籍にあることが、エリンシアの負担になっている」
「そんなことは!」
「……いや、すまん。あんたを悪者にしたいんじゃない。単に疲れたんだ、俺が」
そのときエリンシアの顔をよぎった感情をどう呼べばいいのか、アイクにはわからない。驚愕と寂寥、それと微かな、ああやはりという安堵混じりの予測、すべてが混然となっていた。
表情の理由を想像すると機嫌よく尻尾を揺らすラグズの青年に行き着く。
城下で顔を会わせたとき、ライからエリンシアと謁見するのだと教えられた。何かアイクについて話したのだろうか、一瞬考えてすぐに打ち消す。ライはアイクの性質をよくわかっている。同情を向けられたとて喜ばないことくらい承知しているはずだ。実際ライは、復興作業を手伝いながら幾度も物言いたげな視線をよこして、結局軽口に終始した。自制に富んだ彼がそうしてあからさまな視線を向けていたのも、彼なりの気遣いだろう。
「やはり傭兵稼業をしているほうが気楽だ。親父から遺されたものを、これからは大切にしていきたいと思う」
「……そうおっしゃると思っていました」
ふいにエリンシアが微笑む。それがあまりに明るく澄んでいて、先の動揺から程遠いものであったから、アイクは思わず目をみはった。
「エリンシア」
「アイクさまはお優しいから、きっとそうおっしゃるだろうと……思っていました」
「……わかってたのか? 俺が何を言いに来たか」
呆気にとられるアイクを見下ろし、ふふ、と少女の仕草でクリミア女王は肩を揺らす。怯えや憂いの抜け落ちた、どこかさっぱりと思い切ったような目つきをしていた。
「はい。だって私は、この日をずっとおそれていたのですから」
「本当は……私からお伝えしなければならないことでした」
作品名:完璧な灰にはなれないけれど 作家名:yama