鳥は囀り花実り、:前
で、気付いたら夜である。馬鹿か。
首を背へと反らして上下逆さま世界の中庭を望む。もうすでに詰め所内の明かりも数少なくぼちぼち就寝の頃合だ。
なんともいえない疲労感がどっと増してきてもう一度ため息。風向きが変わったのか顔に夜風が当たる。庇うようにして腕を目蓋に押し当てると気持ち良かった。
本はまだ途中だが内容そのものは真面目で、思ったより抵抗なく読めた。たまにある誰かの寄せ書きも経験則からのツッコミが大半で面白かった。だがふと気が付くと、常にある人物を思い浮かべて、あいつもそうなのかなどうなのかなと考えてしまっていた事が彼の肩を落とさせている。
いい意味でも悪い意味でもギルベルトが初めて意識をした異性。一度だけこの腕に抱いた幼なじみ。今も昔も、強烈な存在感をもってギルベルトの心の一部を占領し続ける彼女。
彼女が元気でいればそれだけで良かったのに、なまじ触れ合ってしまったばかりにわからなくなってしまった。会いたいという欲求の原動力が、それまでの胸を締めつけ焦がれる想いからなのか、それともねっとりとした熱を纏う浅ましい劣情からなのか。
本を読んで思い浮かべていたのだって、ただ単にヤりたいからじゃないのか。
そんな事を考えていたらあの晩を思い出してしまって、彼女の香りさえしてくるようだ。どこかほっとする、暖かな陽光にやさしく包まれるようなにおい。胸いっぱいに満たしたくなる、そんなにおい。
「あー…くそっ。本当になんか、いい匂いがしてきた気が…」
夢想で幻覚を引き起こすほど今の自分は飢えているのか。
昔の方が本当に純粋に、ただ相手を想えていた気がしてより一層情けなくなってきた。
「だからご飯持ってきたって言ってるじゃない」
「いや、そういうんじゃなくてよ。こう…落ち着く感じの」
「あっ! もしかしたらさっき使わせてもらったお湯かも。サシェ入ってたし」
「……へ?」
幻覚にしては妙に受け答えがはきはきしている。
恐る恐る頭を上げる。今の今まであらぬ妄想をしまくっていた彼女がいた。本物の、エリザベータだ。
つま先まで隠れる夜着にショールを羽織り、丸パンが乗った皿と湯気を細くのぼらせるコップをそれぞれ手に持ってる。中身が落ちないよう気を使いながらも、何やらそわそわとした様子で鼻を自分の腕に寄せて匂いを確かめている。さらにいつもそのまま流しているふわふわの長い髪はゆるくふたつに編まれていて、普段と違う装いにギルベルトの心臓が大きく鳴った。
「え、えっ、エエエ、エリ、ぅおわっ!?」
驚きのあまりギルベルトの体が跳ね上がって、ものの見事にバランスを崩して尻餅ついた。さらにその反動で壁に頭をぶつけて一瞬火花が散る。
「~~ッ、いってぇ…!」
「ちょっと、大丈夫?」
あまりの痛みに縮こまっていると、皿とコップを机に置いたエリザベータが心配そうに覗き込んできた。その手が彼の後頭部へと伸びてくる。近い。まずい。
作品名:鳥は囀り花実り、:前 作家名:on