【どうぶつの森】さくら珈琲
38.バラード
そしてわたしは今、「ハトの巣」にいる。今日は土曜日だから、マスターだけではなくとたけけさんもいる。
でも、隣には彼がいない。
二人は何も言わず、わたしの取り留めのない話を聞いてくれた。
さえぎることもなく、ただ黙って聞いていてくれた。
―――初めてだったんだ。こんなに誰かを好きになったのは。
ヴィスや二人のおかげで、今はだいぶ落ち着いてきていた。
本当に初めてのことばかりだった。こんなに幸せで、こんなに不幸な気持ちを知らなかった。
マスターは黙って、淡い黄色い液体が入ったグラスを置く。
―――何これ、ジュース?
マスターは確か、過度な糖分が入っているジュース類を嫌っているはずだった。
「バニラさんのりんごで作った果物酒です。アルコールはごく低いですけどね」
わたしがマスターにお酒を出されたのは初めてだった。
マスターは微笑んで言った。それはいつだって、わたしを安心させてくれる懐かしい笑顔だった。
「大人になったお祝いですよ」
そして、わたしたちは乾杯をした。グラスが涼しい音をたてる。
初めてのりんご酒はとろりと甘くて、のどが少し熱くなった。
ぼーっとした気持ちに乗せて、とたけけさんに頼んだ。ここは、とても静かすぎるから。
―――とたけけさん、何か歌ってよ。
「今かい?」
―――うん、なんでもいいから。
いきなりのリクエストを、とたけけさんは快く聞き入れてくれた。
「ちょっとライブには早いけど、さくらの頼みならしょうがないな。よし、じゃあ今日は特別に人間の言葉で歌おうか」
―――え? 人間の言葉を話せるの?
とたけけさんは、とまとにこっそり頼み込んで、歌のレッスンをしてもらったんだと恥ずかしそうに告白した。
あのプライドの高いとたけけさんが……意外だ。
「人間の言葉ってややこしいんだよね。文法とか方言とかさ。どうぶつ語なんて気持ちを込めて鳴くだけで相手に伝わるのに」
―――うん、世界で一番優しい言葉だね。
とたけけさんはやっぱり恥ずかしそうに、ギターをなびかせる。いつも自信たっぷりな彼のこんな姿はほんとに珍しい。
口笛が響く、続けて、懐かしい人間の言葉の響き。
それはとまとが初めてこの村に来たとき、歌った曲だった。
わたしが人間の世界にいるときに聴いていた歌だった。
わたしは知った。
これはバラードだ。頑張っても叶わなかった恋人への想いを綴ったバラードだった。
今になって、歌詞の意味がわかる。
こんなにも切ない歌だったんだ。
ギターの音が止んでも、しばらく動けなかった。
さっきまで、少し大丈夫になったような気がしたのに。大したことない、なんて気のせい。
また涙が溢れる。もう止まらない。おかしい。わたしは元々泣かない人間だったのに。泣くなんて恥ずかしいことだと思っていたのに。
でも泣かずにはいられなかった。最近のわたしはほんとに、おかしいよ。
これも全部、彼のせいだ。彼が、いないからだ。
「さくらさん」
マスターは言った。
「彼を変えてくれて、ありがとう」
違うよ。わたしは激しく首を横に振る。
変えてもらったのも、教えてもらったのもわたしの方なんだよ。
彼が、わたしの人生を変えてくれたんだよ。
そのとき。
作品名:【どうぶつの森】さくら珈琲 作家名:夕暮本舗