Hepatica
6.
ともすれば風の音……空耳なのかと思うほど遠慮がちにかけられた呼びかけに、シャカは顔を上げ、驚きの言葉を唇に象ってみせた。
「―――なぜ、きみがここに?」
涅槃像のように横たえていた身体を起こしかけると、ねっとりと身体にまとわりつく生温かな風を伴いながら、薄闇から現れたムウがシャカを手で制した。いや、『押さえ込まれた』という表現の方が正しい。目には見えぬムウの異なる力がシャカを捩じ伏せた。
シャカはムウの無礼な行為に対して眉間を寄せ、瞳は閉じたままであったが睨むようにムウを見上げた。
「どうぞ、そのままでシャカ」
「なんのつもりかね?私はきみにこのような扱いをされる覚えはないと思うのだが」
僅かに怒気を孕ませるが、ムウはただ冷たい微笑を浮かべ、シャカの傍らに腰を下ろした。
「時間がないと思いますので端的に。あなたは今後どのようなお立場をとられるので?」
「―――あの噂を聞きつけたのかね、きみは」
日本という小さな島国で銀河戦争などという茶番劇が繰り広げられ、そこで射手座の黄金聖衣らしきものが見つかったこと。そして、その中心にいる人物が女神ではないかと目されていることを。
極秘裏に降された勅命によって動き出した聖域の聖闘士たち。むろんシャカとて例外ではなかった。教皇直々に降された勅命に従い、デスクィーン島まで赴き興味深い少年と出会っていた。
「偽物か、本物か。まだ憶測の段階でしょうけれども、もし日本にいる城戸沙織という少女が本物の女神だとすれば、このまま聖域に従い続けるということは女神に歯向かうということでしょう?本来従属すべき女神に対して。あなたは―――」
「ムウ、きみがきみの知るすべてを打ち明けてくれるというのであれば、考えようもあるが。きみは……そうするつもりはないのだろう?」
シャカは睨むようにムウの言葉を遮った。ムウの苛立つような小宇宙をシャカは感じた。
頑に聖域を去った理由を語ろうとはしなかったムウ。ムウが誰を信じ、誰に裏切られたのかシャカにはわからない。けれどもその結果、ムウは誰も信じないと心に固く誓ったのだろう。彼が決めたその生き方に異を唱えるつもりはない。
「ムウよ、今のまま聖域とは距離を置き、また日本にいる輩たちに加担することがなければ、今後もきみはジャミールで静かに暮らす事ができるかもしれない。だが、もし……」
「もし、加担すれば。あなたと闘わなければならない……のですね?」
「不本意ではあるが、その可能性もあるだろうな」
「シャカ、あなたはどうして欲しいのです?この私に」
どこか縋るような眼差しでムウが問う。シャカが望み、ムウが望んでいる答え。それは決して、本当にムウが望む答えではないのだとシャカはうっすらと気付いていた。悲しいほどに。彼の果たすべき望みを叶えるために伝えるべき言葉は、とても残酷でシャカの胸に痛みを与えた。
それでも―――。
やけに重く感じる双眸をシャカはゆっくりと押し上げた。
直接、視神経を刺激する春の芽吹いたばかりの緑葉の美しさを宿すムウの瞳。とても好きだったとシャカは思いながら答えた。
「−−−−私は何も望まない、きみに」
芽吹いたばかりの緑葉が、容赦なく吹き荒れた風に散らされたかのような瞳でムウはシャカを見ていた。返す言葉すら浮かばなくて、ただ呆然と見つめるだけ。どれほどの時間が過ぎたのか、ようやく動き出したムウが発した言葉は冷えきったジャミールの空気を思い起こさせるものだった。
「よく……わかりました」
訪れた時と同様に風に攫われるようにしてムウは立ち去った。いくつもの感情の欠片を捨てて。