Hepatica
5.
かつん、かつんと規則的に打ち込み、不必要な箇所を削り取る。だが、幾度目かの打撃で手元が狂い、不用意に削り取ってしまった。
集中しているつもりだったムウにすれば、いつの間にか上の空で作業に向かっていたことが、修復師としてのプライドを傷つけ、怒りとなるに十分な理由だった。
「くそ――っ!」
苛立つ心のままに、手にしていた大切な道具をムウは放り投げ、完成間近だった木像を押し倒す。もろく繊細な装飾は衝撃であっさり砕けた。また最初からやり直すとなれば、一年以上もの時を無駄に費やした事になる。
荒い息を肩で繰り返し、ようやく落ち着きを取り戻すが、情けなさも相俟って大きな溜め息を吐き出す。そして、脱力したように座り込むと頭を抱え込んだ。
あの日、シャカはまるで何事もなかったようにアイオリアからの依頼品を受け取り、当然のように聖域へと戻っていった。かれこれ一週間も前のことだ。
「どうして……」
シャカは平然としていられたのか。
どうして、気まぐれだと言うのか。
簡単に忘れろなどと言えたのか。
ムウはシャカの気を疑った。そして、どうしてこんなにも女々しく、シャカのことばかり考えてしまうのかと。ムウは自分のことですら、わからなくなっていた。
「忘れられるはずなんて……ない」
直接に触れたシャカの肌のぬくもり。鼻腔をくすぐる汗の匂いも、深い欲望を揺り起こす甘やかな声も、背徳的な刺激に打ち震えながら抱き合った、そのすべてのことを瞬間を忘れることなど、ムウにはできなかった。
目を瞑れば、すぐ目の前で穏やかな笑みを浮かべているような気さえするというのに。
狂ってしまいそうだった。決して触れてはいけないものに手を伸ばしてしまった自らの愚かさ。
人肌のぬくもりを知らなかった頃にはもう戻れないというのに。
二度とそのぬくもりを感じることができないのだとしたら、師を失ったあの日のように、いや、それ以上の苦しみを味わうことになるのかもしれない。ムウ一人だけが、世界に置き去りにされたようなほどの孤独を感じた。
「もう誰も信じないと決めたのに」
誓いを立てたあの日と同じ悲しみが、全身を覆い尽くしていく。最も憎むべき存在のいる聖域にシャカの身が在ることも、ムウにとっては堪え難い苦痛となって責め立てる。僅かにでも逃れることができればと、ふらりと立ち上がったムウは塔の最上を目指して、冥い階段があげる軋みを耳にしながら、最も高い位置にある場所へと昇っていった。
最後の一段を昇り終えて、呼吸を整えたムウは厳重に施してある結界を解く。長年の塵と澱んだ空気が這い出るようにして閉ざされた扉がゆっくりと開いた。
最初に目の中へ飛び込んできたのは、天窓から差し込む光を受けて淡く輝きを放ちながら鎮座するアリエスの黄金聖衣である。いずれ時がくれば、ムウが纏うべきものだ。
叶うならばずっと、この忍びの部屋で眠り続けて欲しいと願う。そしてその周囲にはアリエスの眩いばかりの黄金色とは対照的にすっかり生命の輝きを失った聖衣たちがあった。
ムウは輝くアリエスを一瞬だけ睨むように見たのち、その聖衣の死骸がある場所へと足を向けた。部屋の片隅で白いシーツによって覆い隠され、異様さを示す場所の前まで来るとムウは立ち止まり、するりとシーツの端を引っ張った。衣擦れを伴いながら、シーツが足下の床へと滑り落ち、一塊となっていく。
「.........」
どくん、とムウの鼓動が大きく打った。目の前に露となったのは鈍色の輝きすら放つ光を失った、天を仰ぐように祈りを捧げ続ける乙女の像である。先代バルゴが身に纏った「オリジナル」の乙女座黄金聖衣。
本来、聖衣は持ち主である聖闘士の命を失ったとしても生き存えることが多い。けれども死闘によって致命的な損傷を負った聖衣は適切な処置をしなければ死を迎えることがある。
だが、稀にその枠から外れるものもあった。鳳凰星座のように幾度も蘇るものもあれば、逆に致命的な損傷を負っていないにもかかわらず、その生命力を失うもの……。
深過ぎる絆によって、持ち主の死に聖衣が耐え切れず、絶望した結果なのだと師は静かに語っていた。
涙の痕のようにひび割れたマスクを指先で辿る。今もずっと持ち主を守る事が出来なかったことを悔やみ、泣き濡れているかのようでムウは悲しく思った。
シャカを守る今の黄金聖衣は師によって新たに造作されたものである。だが、そのことを知るのは恐らく今はもう、自分だけであろうとムウは思う。
細部に渡って記された聖衣の製図はたった一度だけ目にしたが、ムウの脳裏には完璧に焼き付いていた。オリハルコンや金といった素材の含有率なども正確に書かれていたそれは、師の―――シオンの執念すら感じさせるほどのものだ。
祈る乙女の像と対峙するシオンの眼差しは酷く厳しく、鬼気迫るものだった。幼心にも熾烈すぎる眼差し。ただ漠然とした恐怖を感じるのみだったし、幾度もシオンの想いを知ろうと此処へ訪ねたけれども、どれだけこの場所に留まろうとも結局は解らないままであったのだが、今ならば師の深淵がわかる気がした。
「遺された者の哀しみ……共に逝くことを赦されなかった苦しみ、痛み―――」
それらの感情をも凌駕するほどのものが原動力となって、シオン自身の命を削りながらも、新たな乙女座の聖衣を生み出すことに成功したのだろうか。
完成と共にシオンは暖炉の火の中に製図を投下した。燃やされ、灰となっていく製図を見つめる皺深く埋もれた瞳の奥底に隠された想いを想像する。
一体、師は炎を見つめながら、なにを想っていたのか。
祈る乙女の像から、眩しく輝くアリエスへと視線を向けたムウはぶるりと小さく武者震いをした。
「いや、違う……それだけじゃあない。シオン、あなたは―――」
全てを超える想いがあるのだとしたら……シオンの覚悟の言葉がアリエスから発せられたような気がしたムウであった。