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Hepatica

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8.

 今度はもう言い逃れはできない。いいや。するつもりもなかった。

「―――いいでしょう。教皇には白羊宮の守護はこのアリエスのムウがあたると伝えてください」

 満足のいく答えを得た聖域の使者は嬉々としてジャミールから立ち去っていった。外はいつの間にか天気が崩れ始めていた。明るく周囲を照らしていた太陽は厚い雲に覆われている。湿気を多く含んだ風が不快さを増していた。

「ムウ様……よかったのですか?」

 聖域の使者の横柄な態度が気に食わなかったらしい貴鬼は出て行った扉に向かって悪態をついたあと、不満げにムウを見上げた。
 仏頂面を浮かべた貴鬼の顔に向かって、ムウは笑って答える。

「いいのです。目的は星矢たちの討伐ではなく、星矢たちの加勢に行くのですから。彼らの聖衣も直して差し上げないといけないでしょうしね。そういうことですから、貴鬼、修復道具を準備しておくように」

 そうムウが告げると不貞腐れた顔をしていた貴鬼は打って変わって「はい!」と威勢の良い言葉と共に満面の笑みを返した。目を細めて嬉しそうに準備を始めた貴鬼を見たあと、ムウはアリエスの眠る最上階へと久しぶりに足を伸ばした。
 すでに天窓には雨が叩き付けられていた。時折、轟音と共に稲光が走り、一瞬目を焼くような閃光に包まれる。アリエスの像は薄闇の中で黄金色の輝きを纏ったた。怒る雷神のようにさえ感じる。

「シオン。ようやく、聖域に……あの男に一矢報いる事ができそうです」

 ムウにとって大き過ぎる存在であったシオンが、たった一人の男によって倒されたなどとは今も信じられないでいる。
 きっとムウにはわからない、大いなる意志によって今日まで続く異常な事態が引き起こされたのだと、その為にシオンは犠牲になったのだと思っているのだ。
 だがそれも後僅かだろう。聖域に女神が降臨したことで、ようやく聖域は目覚め、本来あるべき姿へと戻るのだ。聖域が正常な機能を果たす……それは聖闘士たちもまた同様なのだろう。聖闘士として本来の役目を果たすのだ。
 
 ―――聖闘士の本来の役目?
 
 どくんとムウの心臓が大きく跳ねた。そして視線は部屋の奥へと泳ぐ。そこかしこにある「ソレ」らは聖闘士が本来の役目を果たした結果の姿。どくどくと流れる血の廻る音がやけにうるさく感じながら、自然と足が最奥にある布に覆われた「ソレ」のひとつへと向かった。
 布の端を掴みそっと引っ張ると、するすると布が滑り落ちる。
 縦横無尽に走る稲光を時折受けながら、目の前に露になった、生命の輝きを失した乙女座の黄金聖衣の姿が痛いほど胸に突き刺さった。
 幻のようにシャカの姿がバルゴに重なる。静かにただ「その時」を迎えるために蓮華座を組むシャカの姿は生命を失しながらも、祈り続ける乙女の像のようで。
 空気を切り裂き轟き渡る、けたたましい破裂音とともに塔が振動するほどの衝撃を受ける。薄闇に包まれていたはずの部屋は真っ白の光に包まれながら、不吉な予感にざわりとムウは総毛立った。




 聖域はこんなに寂びた色をしていたのだろうかと十年以上ぶりに訪れてムウは思った。随分と荒み、汚らわしくなったものだと冷ややかに見つめる。
 その変化を目の当たりに感じながら、迎え撃つ「敵」のため守護すべき白羊宮の前に立つ。
 十二の宮のうちの数カ所を除いて既に皆、配置についているようだった。懐かしい小宇宙の片鱗に触れながら、そのどれもが幼い頃とは見違えるほどの強大なものとなっていることを知る。中にはひどく暗く澱んでしまっているものもあった。それが十年以上の時を経た変化なのだろう。
 そして第六の宮へと意識を伸ばせば、清らかな鈴の音のようでありながら、恐ろしいほど研ぎ澄まされたイオンの中心にある彼の存在を感じて、僅かにでも動揺する自分があった。離れようとする意識に反して、惹き付けられるように透視する。
 処女宮の奥深くで鎮座するシャカは凄まじい集中のもと、小宇宙が作り出した美しい蓮の蕾の中で眠るが如くだった。
 ほどなくして城戸沙織と星矢たちの一行が訪れ、手筈通り彼らに試練が与えられた。ムウは案の定、傷だらけだった彼らの聖衣の修復を手がけた。明確な造反である。教皇の間から発せられる呪詛のような叱責の声を無視しながら、彼らの後ろ姿を見送った。
 星矢たちには是非とも教皇扮するあの男を打ち破って欲しいと願う。だが、そこに至るまでには同胞たちとの死闘が待ち受けている。
 立ち塞がる強大な壁を見事、乗り越えられるか否かは彼ら次第だと、非情なまでにムウは冷静に思うのであったが、その反面、当然壁となって立ち塞がるであろうシャカの身を案じてもいた。
 黄金聖闘士である彼らが事の真相に気づくか、目を覚まして星矢たちに協力するかは半々といったところだ。アルデバランやアイオリア、ミロといった連中は協力に転じる可能性が高いとムウはみていた。
 その中にシャカは含まれるか、といえばかなり可能性としては低かった。ストイックなまでに聖域に身を投じているシャカのことだ。全身全霊をかけて、星矢たちと対峙するのだろう。
 時折、話しかけてくる貴鬼に生返事を返して、戦局を見逃すまいと集中していた。よくわからないアイオリアのアドバイスによって、意味もなくシャカの怒りを買った星矢たちに若干の哀れみすら感じながら、シャカとの戦闘を透視する。
 シャカから繰り出される技の一つ一つの完成度に驚きを禁じ得ない。溜め息すら漏れ出る始末だった。圧倒的なシャカの勝利となるかと思えた。だが、突然現れた一人の男の執念とも言える闘いによって、戦局は変わった。

「シャ……!?」

 思わず声を発してしまった。星矢たちの勝利を願いながら、シャカの勝利を確信していたムウは絶句した。
 
 まさか……そんなバカな。
 
 幾度も繰り返し問い続ける。残された黄金に輝く祈る乙女の像。ぞっとするような映像が脳裏に焼き付いた。

「ムウ様?大丈夫ですか」

 はち切れんばかりに打つ胸の鼓動に顔を顰めていると、側で様子を伺っていた貴鬼が心配そうに声をかけてきた。

「……大丈夫。ええ、大丈夫ですよ、貴鬼」

 そうだ。
 まだ祈る乙女は生きている。黄金の輝きを失ったりはしていない。絶望などしていないのだから。きっと何でもなかったようにシャカは戻ってくるだろう。悪びれもせず、ムウに助けを乞うかもしれない。
 もしも、シャカが自分に助けを願い出たら―――こんなに心配させた分、意地悪く答えようとムウは少しばかり顔色を悪くしながらも、貴鬼に向かって微笑んだ。


作品名:Hepatica 作家名:千珠