Hepatica
9.
すべてが決着した夜。
ムウはスターヒルと呼ばれる祭壇で佇んでいた。祭壇とはいっても、何か仰々しい造りの建造物などではなく、あるのは目の前の断崖絶壁と星降るような夜空だけ。
こんな寂しげな場所で、一人無念のうちに死の眠りについたのだろうかと亡き師を悼んでいると、よく知った小宇宙の持ち主が近づいて来た。随分と懐かしい気がした。凍てつくような寒さの中で、じんわりとぬくもりを伝えてきたあのジャミールでのひと時のように、優しげに揺れる小宇宙を全身で感じる。
とても温かい……
張りつめていた何かがぷつりと断ち切れたような気がした。
ムウの背後で立ち止まったあと、しばらくの間を置いたのち、シャカが静かに声をかけてきた。
「―――きみの永き闘いはようやく幕を降ろしたかね」
「ええ」
「積年の恨み……いや。きみの望みが叶って、満足かね?」
「ええ」
「これできみの心は晴れたのかね」
「ええ」
「―――嘘つきだな、きみは」
フッと小さくシャカが笑う。嘘はお見通しといわんばかりに。彼以外がそんな態度をとれば、きっと許したりはしなかっただろう。ふぅと小さな息を吐き、肩の力を抜いた。
開放された星夜の下では、なにも肩肘を張る必要もなく、わだかまりすらもあっさりと消えていくのだろう。凝り固まっていた心が解され、素直に応じる事ができる。
「ええ……フフ。どうしてでしょうね、シャカ。心が一向に晴れません。むしろ苦しみが増すばかりです。願っていたはずなのに。望んでいた結果のはずなのに。教皇に扮したサガの悪事が明るみになって、無事女神の統治下となった聖域。すべてが望み通りなのに……何故でしょうか。私は悲しくて、何よりも―――恐ろしくて、堪らない」
振り返り、シャカを見る。凛としたシャカの姿は完膚なきまでに青銅聖闘士を叩き潰した者とは思えぬほど美しかった。シャカはこの闘いで何かを得たのか。いや、削ぎ落としたのかもしれない。
命を削りながらも生命を注ぐように乙女座の黄金聖衣と向き合い、一心に打ち込んでいた師、シオンの姿が重なる。
「我らは本来あるべき姿に戻る。女神の名の下に。それがどういうことなのか、きみはよくわかっているのだろう。だから、悲しく、恐れるのだろう。如何ばかりかの紆余曲折を得て、ようやく歩むべき軌跡へと辿り着いた。新たな闘いへの幕開けだ」
「幕開け……」
「―――ムウ、きみに見せたいものがある。ついて来たまえ」
返事を待たずして、くるりと踵を返したシャカに従って、ムウは反論することもなくただ、無言のまま後ろを付いて歩く。途中で生き残った者たちとすれ違い、不思議そうに眺めていたが、声をかけてくることはなかった。二人の間にある、どこか異様な雰囲気に飲まれでもしたのだろう。
ゆっくりと損傷の激しい十二宮を逆順に降りていき、ようやく処女宮まで来たところでシャカはその奥へと向かっていった。
「ここだ」
蓮らしきレリーフの施された門のような壁の前で、シャカが立ち止まった。固く引き結んでいた唇が解ける。
「きみに見せると約束していただろう?」
一体何を?とシャカに訪ねようとした。その瞬間、目の前の壁―――門がゆっくりと音もなく押し開いていった。
ザァーーーッ!
見事なまでに咲き誇る花園を吹き抜けた風が、ムウのところまで花の香りを届けた。
「すごい……」
目を瞠りながら、先を歩くシャカに続いて花園に足を踏み入れる。草花を避けては通れなくて、踏んづけてしまうが、シャカは一向に構わないといった様子だった。
「処女宮にこんな場所があるなんて」
「―――いつだったか、きみのところに訪ねた折、私の花園を見せようと言ったであろう?ようやく見頃となってきた……」
「そういえば、そんな約束をしましたね」
律儀にもシャカは覚えてくれたのかとムウは少し嬉しくなった。小高い丘の上にある二本の木を遠く見つめるシャカの横顔はまるで―――何もかもをもなくしたように無防備で、思わず息を呑む。
「―――前に私は何も望まないといったけれども」
どきりとムウは身を竦めた。刃先に撫でられたかのように感じたのだ。シャカに何も望まれないと知ったその日、ひどく傷ついたことを思い出す。シャカの一切を忘れようと決めたその日。だが、やっぱりムウは忘れたりはしなかった。できなかったのだ。
自然と表情が硬くなり、ムウは緊張した。敏感にシャカは察知したのか、少し戸惑ったような表情を浮かべていた。
「確かにそういう酷いことを言われましたけど、それが何か?」
少し意地悪くムウは答える。するといよいよ困ったという風にシャカは口元に拳を寄せ、一瞬考えるように首を傾げた。
「きみを傷つけることはわかっていたけれども、あの時はあの答えしか浮かばなかった。もっと思いやれる言葉を見つけられたら、きみを傷つけたりはしなかったのだろうな。すまなかった」
今になって謝罪するなんて、ずるい……とムウは顔を歪める。どれだけ苦しんだか、どれだけ悲しんだことか。思わず恨み言の一つでも言ってやろうと口を開きかけたが、そのまま時が止まったようになる。
そっと押し開かれた双眸から露となる聡明な瞳に見つめられたのだ。
それがどれほどの破壊力を持っているのか、シャカはちゃんと知っている。そして有効かつ致命的に実践するのだ。本当にずるい人だ、とムウは観念するしかない。
「きみに望むことがある。いや―――頼み事、だ。ムウ、きみだけに。きみにしか、頼めないこと」
どこから吹くのか時折、風が悪戯に過ぎて、シャカの真っ直ぐに伸びた髪を舞わせる。風に舞うたびにキラキラと星屑のように光る黄金の糸。シャカは本当に綺麗な人なのだと改めて心奪われる。揺らぎない瞳の輝きが強い意志を表して、さらに彩りを添えているようだった。
「―――私にしか頼めない事?あまり難しい事は無理ですよ」
ムウの言葉を聞いたシャカは小さく口元に笑みを浮かべて、吹く風に乗せながら、願いを囁いた。
「難しい事などない。きみならば極めて簡単なこと。この花園で私は......から、決して誰も邪魔せぬように、この門を死守して欲しい」
ああ、シャカ。
悪戯な風のせいでよく聞こえませんでした。
だって、ありえない言葉を聞いたのですから。
あなたが……
「 」
なんて。