Hepatica
2.
建物の中だというのに、外気とさほど変わらぬほど底冷えするのはこの土地の冬の厳しさゆえなのだろう。真昼の太陽の光もすっかり真深い雪の白い輝きに負けて、灰色の雲の後ろへと隠れるほどだ。夜ともなればさらに寒さは厳しさを増した。
長居をすれば、訊ねたくもないことを訊ね、知りたくもない事実を知らねばならない気がして、様子を窺う程度で退散しようとしていたシャカだったが、ムウにぜひにと請われ、帰るのを延期した。
ムウがあり合わせの食材で賄ってくれた夕食は本当にあり合わせなのかと疑わしくなるほどよく出来たもので、それに…二人では多すぎる量だった。けれども、不揃いな食器の上に彩を添えていた料理たちは少しずつ量を減らし、気付けばすっかり空となっていた。
「すっかり馳走になった…とても美味しかった」
「粗末なものでしたけれど、お口にあったのなら幸いです。私もいつもよりよく食べましたよ……ちょっと苦しいくらいですよ」
形の違うカップに茶を注ぎいれながら、笑うムウに「私もだ」と答えたシャカは手渡されたカップを受け取る。ジンと指先に温かさを伝えるカップ。ふと、その絵柄をどこかで見た憶えがあった。その手にしっくりと馴染む感覚にも。
シャカが怪訝そうに茶を喫する事無くじっと見つめているとムウがばつが悪そうに苦笑した。
「すみません、それ……拝借したままでしたね。あなたに返し損なって、ジャミールまで持ってきていたんです。いつか返せたらいいな、と思って」
「え?」
「ほら、あなたが持ってきた紅茶を頂いたときがあったでしょう?小さな湯呑みで飲もうとしたら、あなたは怒ってしまって。わざわざ、ご自分の宮から気に入りのカップだと私にお貸し下さったんですよ……返さなくちゃ、と思っていたけれども、結局、返さないまま聖域を出てしまって。その時、これだけは持って出たんです。長い間ありがとうございました。お帰りの時、忘れずにお持ち帰りくださいね」
しみじみと語るムウにそういえばそんなこともあったかと、もう一度懐かしげにカップを見つめた。手に馴染む感触は確かに自らが気に入っていたことを伝えている。
すると、微かに残像のようなものが視えた。
大事そうにムウがこのカップを取り出す光景を。
乾杯するように自らが持つ杯と鳴らす光景を。
愛しむように淵を指先でなぞる光景を。
「―――ごめんなさい。やはり怒ってますよね?」
俯いてしまったシャカに焦ったようにムウは謝罪をする。「違う…」と小さくシャカは首を振りながら呟いた。
「違うのだ、ムウ。怒ったりしていない……私は。ただ、己の知らぬところで…己の知らぬ時間をコレは君と共に過ごしてきたのだと思うと、嬉しくもあり、悲しくもあるのだよ」
膝の上に掛けられた何度も繕われた毛糸の編み物のように、大切に、大切に、コレは扱われていたのだろう。
「本当にあなたという人は……へんなものを視てしまったんですね。それに、そんな風に言わないで下さいよ。恥ずかしいじゃないですか」
「―――すまない」
「謝らないで下さい。それこそ困ってしまいますから…あとでちゃんと洗って割れないように包んでおきますね」
はぐらかすように食器を片付けだしたムウに気まずさを感じながら、少し冷めてしまったお茶をシャカは口に含んだ。
それはほんの少し、ほろ苦い味がするお茶であった。