冬嵐ノエル
「……つか、センセも結局不意打ちじゃないスか」
「そーなっちゃいましたね」
先生がエヘヘと悪びれなく首を傾けた。
「……。」
――まぁいーすけど、何にしても溜め息ばかり出ちゃうのは何のあとだっけ、って強引に何かの歌詞思い出そーとして、……あーいかん、感触ゴマカそーにもいまさら腹の奥からニヤケてくるし、顔とかぜってーだせぇワンテンポ遅れで真っ赤だし、
「どうかしましたか?」
急に腕を解いて背を向けたので、不審に思った先生が彼を覗き込んでくる、
「……や、何でもないス、」
黒板前の教卓からもっかい回れ右して、肩を丸めて腹を押さえて、笑いたいのに泣きたいような、窓の外に舞う雪の螺旋に頭の底がぐらりと傾ぐ、……知らないはずの、いやどこかで聞いたことのある乾いた声が耳に響いた、
――いい気なもんだな、おめでたい奴だよ、隙あれば都合よくふらふらそっちに寄り掛かろうとする、……端から先は見えていたのに、ものわかりのいいふりで、みすみすあの人を送り出した、いっそ恨まれてればよかったなんて、その執着さえないあの人を薄情呼ばわりするくせに、そういうあの人に大らかさにいつまでたっても子供みたいに甘えているのは自分なのだ。
「――……起きて下さい、」
肩を揺すられて、目を開けると真上から覗き込んでいたあの人が言った。
「いい加減、そんなところで寝てると風邪をひきますよ」
「……。」
少年は柔らかい毛織りの上掛けを避けてのそりと起き上がった。熱がこもって腫れぼったいような瞼を擦って辺りを見回す。
大方片付けの済んだ畳敷きの大部屋は、さっきまでの雑多な雰囲気とはまるで違って殺風景に映った。
「……みんな帰ったんスか」
半分掠れた少年の声が訊ねた。
「ええ」
口の端に笑んで彼が頷いた。
「覚えてませんか? 君もちゃんと玄関までお見送りしたんですよ。……で、感心してたらここに戻った途端、座布団の上にパタンって」
思い出してか、彼がくすくす肩先の髪を揺らす。
「……」
少年は胡座をかいて呆けたまま、毛先の跳ねた頭を掻いた。――そーだっけ、ゼンゼン記憶にねーけど、……つかもうずっとだいぶ前から、昼でも夜でもボーッと夢の中にいるみてーな、
(……、)
――そうだちょこっと思い出した、少年は緩みかけた帯の上から今度はボリボリ腹を掻いた。
集会の数日前から何だかえらく張り切ってセンセがこさえてたナゾの物体、特別製の菓子とかどーとか、……つっても蒸し上がって湯張りの釜から出された途端、夏の激しい通り雨のあと、カンカン照りの日に晒された半乾きの着物の匂いみてーな、出来上がりの微妙な色も見た目も、噛んだらぐにゃっ!て、薬くせーみてーな焦げたみてーなそれでいてこってり脂まみれの複雑すぎる味もなんだかよくわかんねーし、でもみんなすげーすげー言って喜んで(?)食ってんし、そりゃまぁ確かにスゴイ味、としか例え様のない代物だったけど。
「……今日って誰かのたんじょーびなんスよね、」
腹から手を降ろした少年がぽつりと言った。
「そうですよ」
――昼間の講義聞いててくれたんですね、上掛けを畳んで振り向いた彼が笑った。
「今から何千年も前に生まれた人のね」
「……、」
少年は俯いて前髪を震わせた、「おかしーっすよね、ンな大昔に生まれたのに、いまだに大勢に祝ってもらえる奴がいて」
「……」
彼は黙って耳を傾けていた。少年は短く息を吐いた。
「俺みたいに、自分が生まれた日もろくに知らねーヤツがいて」
――世の中うまくできてるモンすね、彼を見ないで少年は言った。棘まみれの自分の言葉に彼が傷付いていればいいとさえ思った。そういう投げやりな気分だった。
一緒に暮らして、彼の優しさも思いやりも、目には見えない透明な居心地の良さの中に、日々埋もれて緩やかに窒息していくような、いまこの場所から放り出されたら自分はたちまち光を失った道脇の草のように萎れてしまうのではないか、それがひどく恐ろしくて、以前の自分なら、暗闇の中にひとり居て望むものなど、足りないなどと思うことすら知らなかった、……それがどうだ、今の自分は、光の眩しさを、温かさを、知れば知るほど貪欲に、もっととそれ以上を求めようとしてしまう。
「……君の生まれた日は、」
静かな声で彼が言った。誰への、何に対する怒りか混濁させたまま、少年は熱に潤んだ目を上げた。
「君が自分で生まれたいと思った日です」
「……は?」
少年は眉を寄せた。畳の上で彼は正座の背筋を伸ばした。
「君が願えば、君はいつでも世界に生まれることができるんです」
「……」
少年は彼を見た。ワザとじゃないかと思うほど、この人とはときどき会話が噛み合わない。いや、はぐらかされてるとかそういうことじゃなく、斜に構えた自分が放ったどんな礫も、こんな風に真正面で受け止められたら、所詮駄々をこねてるだけの自分が折れるしかないことも。
「……じゃあ、センセに会った日にします」
鼻を啜って溜め息混じり、少年は言った。
「え?」
彼が驚いたように目を見張る。
「よーするに、俺が自分で好きに決めていいってコトでしょ、」
澄ました声で少年は返した。
「……」
呆気の表情から、一転、彼が笑顔になった。
「そうですね。それだと私も忘れないですし」
「……」
――またさらっとそーゆーコトを、天然なんだか何なんだか、少年は心に息をつく。
「――あーでも、」
縒れた気持ちを立て直すように少年は言った、「俺のたんじょーびにはあのヘンなぶよぶよのやつはいらないです、いっぺん食えばじゅーぶんなんで、」
「えー、」
明らかに納得いかない声で彼が言った、
「そんな、ブヨブヨのヘンなやつって、あれは材料調達やら仕込みやら、結構手間暇掛かってるんですよ?」
――せっかく原書の文献参考に、辞書引きながら作ったのに、
「はぁ……」
嘆く彼に、少年はうやむやな愛想笑いを浮かべた。
それはおそらく、文字通り“骨折り損”、てやつじゃなかろーか、少々気の毒ではあるが、率直に少年は思った、……とにかく自分のたんじょーびにもっかいアレを出されるくらいなら、近所の団子屋の頑固ジジィんとこでも一日弟子入りした方が百倍ましだ。
「……わかりました」
項垂れていた彼が、やがて観念したように言った、
「来年の君の誕生日はそれでお祝いしましょう、」
何の迷いもない満開の笑顔で言われると、それはそれでこっちも急にいたたまれなくなる、
「……、」
――そーいやセンセはいつっスかたんじょーび、ついでみたいなどさくさに訊ねて、
「私ですか?」
髪を揺らして首を傾げた彼が答える、――今さら自己紹介みたいですね、笑い含みに呟いて、少しはにかむみたいに、私は……――、
「そーなっちゃいましたね」
先生がエヘヘと悪びれなく首を傾けた。
「……。」
――まぁいーすけど、何にしても溜め息ばかり出ちゃうのは何のあとだっけ、って強引に何かの歌詞思い出そーとして、……あーいかん、感触ゴマカそーにもいまさら腹の奥からニヤケてくるし、顔とかぜってーだせぇワンテンポ遅れで真っ赤だし、
「どうかしましたか?」
急に腕を解いて背を向けたので、不審に思った先生が彼を覗き込んでくる、
「……や、何でもないス、」
黒板前の教卓からもっかい回れ右して、肩を丸めて腹を押さえて、笑いたいのに泣きたいような、窓の外に舞う雪の螺旋に頭の底がぐらりと傾ぐ、……知らないはずの、いやどこかで聞いたことのある乾いた声が耳に響いた、
――いい気なもんだな、おめでたい奴だよ、隙あれば都合よくふらふらそっちに寄り掛かろうとする、……端から先は見えていたのに、ものわかりのいいふりで、みすみすあの人を送り出した、いっそ恨まれてればよかったなんて、その執着さえないあの人を薄情呼ばわりするくせに、そういうあの人に大らかさにいつまでたっても子供みたいに甘えているのは自分なのだ。
「――……起きて下さい、」
肩を揺すられて、目を開けると真上から覗き込んでいたあの人が言った。
「いい加減、そんなところで寝てると風邪をひきますよ」
「……。」
少年は柔らかい毛織りの上掛けを避けてのそりと起き上がった。熱がこもって腫れぼったいような瞼を擦って辺りを見回す。
大方片付けの済んだ畳敷きの大部屋は、さっきまでの雑多な雰囲気とはまるで違って殺風景に映った。
「……みんな帰ったんスか」
半分掠れた少年の声が訊ねた。
「ええ」
口の端に笑んで彼が頷いた。
「覚えてませんか? 君もちゃんと玄関までお見送りしたんですよ。……で、感心してたらここに戻った途端、座布団の上にパタンって」
思い出してか、彼がくすくす肩先の髪を揺らす。
「……」
少年は胡座をかいて呆けたまま、毛先の跳ねた頭を掻いた。――そーだっけ、ゼンゼン記憶にねーけど、……つかもうずっとだいぶ前から、昼でも夜でもボーッと夢の中にいるみてーな、
(……、)
――そうだちょこっと思い出した、少年は緩みかけた帯の上から今度はボリボリ腹を掻いた。
集会の数日前から何だかえらく張り切ってセンセがこさえてたナゾの物体、特別製の菓子とかどーとか、……つっても蒸し上がって湯張りの釜から出された途端、夏の激しい通り雨のあと、カンカン照りの日に晒された半乾きの着物の匂いみてーな、出来上がりの微妙な色も見た目も、噛んだらぐにゃっ!て、薬くせーみてーな焦げたみてーなそれでいてこってり脂まみれの複雑すぎる味もなんだかよくわかんねーし、でもみんなすげーすげー言って喜んで(?)食ってんし、そりゃまぁ確かにスゴイ味、としか例え様のない代物だったけど。
「……今日って誰かのたんじょーびなんスよね、」
腹から手を降ろした少年がぽつりと言った。
「そうですよ」
――昼間の講義聞いててくれたんですね、上掛けを畳んで振り向いた彼が笑った。
「今から何千年も前に生まれた人のね」
「……、」
少年は俯いて前髪を震わせた、「おかしーっすよね、ンな大昔に生まれたのに、いまだに大勢に祝ってもらえる奴がいて」
「……」
彼は黙って耳を傾けていた。少年は短く息を吐いた。
「俺みたいに、自分が生まれた日もろくに知らねーヤツがいて」
――世の中うまくできてるモンすね、彼を見ないで少年は言った。棘まみれの自分の言葉に彼が傷付いていればいいとさえ思った。そういう投げやりな気分だった。
一緒に暮らして、彼の優しさも思いやりも、目には見えない透明な居心地の良さの中に、日々埋もれて緩やかに窒息していくような、いまこの場所から放り出されたら自分はたちまち光を失った道脇の草のように萎れてしまうのではないか、それがひどく恐ろしくて、以前の自分なら、暗闇の中にひとり居て望むものなど、足りないなどと思うことすら知らなかった、……それがどうだ、今の自分は、光の眩しさを、温かさを、知れば知るほど貪欲に、もっととそれ以上を求めようとしてしまう。
「……君の生まれた日は、」
静かな声で彼が言った。誰への、何に対する怒りか混濁させたまま、少年は熱に潤んだ目を上げた。
「君が自分で生まれたいと思った日です」
「……は?」
少年は眉を寄せた。畳の上で彼は正座の背筋を伸ばした。
「君が願えば、君はいつでも世界に生まれることができるんです」
「……」
少年は彼を見た。ワザとじゃないかと思うほど、この人とはときどき会話が噛み合わない。いや、はぐらかされてるとかそういうことじゃなく、斜に構えた自分が放ったどんな礫も、こんな風に真正面で受け止められたら、所詮駄々をこねてるだけの自分が折れるしかないことも。
「……じゃあ、センセに会った日にします」
鼻を啜って溜め息混じり、少年は言った。
「え?」
彼が驚いたように目を見張る。
「よーするに、俺が自分で好きに決めていいってコトでしょ、」
澄ました声で少年は返した。
「……」
呆気の表情から、一転、彼が笑顔になった。
「そうですね。それだと私も忘れないですし」
「……」
――またさらっとそーゆーコトを、天然なんだか何なんだか、少年は心に息をつく。
「――あーでも、」
縒れた気持ちを立て直すように少年は言った、「俺のたんじょーびにはあのヘンなぶよぶよのやつはいらないです、いっぺん食えばじゅーぶんなんで、」
「えー、」
明らかに納得いかない声で彼が言った、
「そんな、ブヨブヨのヘンなやつって、あれは材料調達やら仕込みやら、結構手間暇掛かってるんですよ?」
――せっかく原書の文献参考に、辞書引きながら作ったのに、
「はぁ……」
嘆く彼に、少年はうやむやな愛想笑いを浮かべた。
それはおそらく、文字通り“骨折り損”、てやつじゃなかろーか、少々気の毒ではあるが、率直に少年は思った、……とにかく自分のたんじょーびにもっかいアレを出されるくらいなら、近所の団子屋の頑固ジジィんとこでも一日弟子入りした方が百倍ましだ。
「……わかりました」
項垂れていた彼が、やがて観念したように言った、
「来年の君の誕生日はそれでお祝いしましょう、」
何の迷いもない満開の笑顔で言われると、それはそれでこっちも急にいたたまれなくなる、
「……、」
――そーいやセンセはいつっスかたんじょーび、ついでみたいなどさくさに訊ねて、
「私ですか?」
髪を揺らして首を傾げた彼が答える、――今さら自己紹介みたいですね、笑い含みに呟いて、少しはにかむみたいに、私は……――、