茜空とほうき星
腑に落ちないままに車を動かし、ビリーの家を目指す。気のせいかもしれないが、今日のビリーはいつもと少し違うように思えるのだ。何が違うかを尋ねられても、具体的には答えられないのだけど。
居間のテーブルに買ってきたものを並べ、グラスには麦酒を注ぎ、軽く乾杯をする。
話す内容が大体いつも決まってしまうのは、並べている顔が同じだからだ。グラハムの愛機・ユニオンフラッグの話、各国の最新情報、最先端の科学技術。あまり代わり映えのない日常で、真新しい話題も特にない。
自然と会話が途切れるが、グラハムはそれを嫌だとは思わなかった。誰かと喋ることは好きだけど、一人きりで過ごす時間が長かったせいか、沈黙のほうがむしろ馴染んでしまっているのだ。
黙っていると、夜の足跡がひたひたと迫ってくるのがわかる。夕焼けの橙色が徐々に小さくなって、東のほうから宵闇が押し寄せてくるのだ。グラハムは小さなビルの屋上から、その様子を眺めたことがある。外が真っ暗に侵食されていくさまは、グラハムの中の世界の終わりと同じだった。
すごく怖くて不安で、でも待っていれば、必ず朝はやってきた。だから訪れる朝をただひたすら待っていた。それが希望だとでもいうように。
「グラハム?」
ふいにかけられた声に、ハッとして首を巡らせた。どうやら物思いにふけってしまっていたらしい。グラハムはビリーに謝った。
「僕は別に構わないけど、珍しいね。君のそういう姿は」
「そうだな……」
意識を飛ばせるということは、この場所が安全だと認識しているからだ。子供の頃のグラハムにそう思える場所はほとんどなかったし、今も仕事をしているときは一瞬たりとも気は緩めない。だからそういう場所は貴重だった。
ああ、そうか、と気づく。ここを訪れる理由は、たぶんそれなのだ。
息抜きができて、気を張る必要もない安らかな空間。好物ばかりが並ぶテーブルの上。それらを与えてくれる存在。言葉で表すとしたら、いったい何になるのだろうか。
「君のそれは、僕が信頼されているってことで納得するけど、やっぱりちょっと複雑だなぁ……」
「何が、だ?」
グラハムはビリーを見る。昼間もそうだが、やはり今日の彼はおかしなことばかり言うと思う。
麦酒を呷り、ふぅっと息を吐いたビリーが、ゆっくりとこちらを振り向いてきた。
「たとえば僕が、君に対して何かよからぬ策を巡らしているとか、そういうこと全然思わないのかい?」
「カタギリが?」
そんなことあるわけない、という口ぶりと表情で言ったのに、何故だかビリーはガックリと肩を落としてへこんでいた。グラハムにしてみたら褒めてやったと同じなのに、どうして落ち込まれるのかがサッパリわからなかった。
「まぁ、僕も悪いんだけどね」
「だから何が」
言いたいのかがハッキリしないビリーに焦れて、グラハムは少しにじり寄った。驚いたようなビリーの表情がやや真剣なものに変わる。
「君は無防備すぎると思うよ?」
「私のどこが……」
少なくとも、そんな評価をもらったことは一度もない。余裕がなくてピリピリしすぎと叱られて、恥ずかしい思いをしたことなら何度もあるが。
ビリーの大きな手が、スッとこちらに伸ばされてきた。細く長い指先を見ていたら、以前、頭を撫でられたときの感触を思い出してドキリとした。あれは暖かくて気持ちがよくて、けっこう好きだった。
指先が頬に触れ、思わず首を竦めてしまった。ゾクリとした、恐怖とは違う感覚が体中を駆け巡ったのだ。大きな手のひらが頬を撫で、長い指が髪を触り、耳をなぞる。なすがままに自由を許していたら、ビリーの顔が近付いてきて、あっ、と思ったときには唇が触れ合っていた。
*
驚いた体が、反射的に払いのけようと動いたけれど、感情のほうがそれを押し止めていた。
どうしてだろう? 自分でもわからなかった。最初は恐々と触れるだけだった唇が徐々に深く重なり合い、さらにさらにと求めていく。
頭の中が勝手にのぼせて、もっとほしくて、グラハムは自分の腕がビリーの背中に回っていたことにも、気がつかなかった。
「…ん、…」
じゅうぶん堪能しあった唇がゆっくりと時間をかけて離れていく。閉じていた瞳を開けて、グラハムは目の前の男の顔をじっくりと眺めてしまった。それは問いかけるような視線だったかもしれない。
「抵抗しないのかい?」
「えっ?」
「しないと、このまま続きをやっちゃうけど?」
続き、と口内で呟き、グラハムはビリーの動きを目で追っていた。彼の手がネクタイを外し、さらにはシャツのボタンまで開けようとしているのを見て、グラハムはようやく続きの意味を悟ったのだ。
「私を抱くのか?」
もとより言葉を選ぶとか、そんなことをしないグラハムなので、ダイレクトに確認する。ビリーはいつもの笑顔で頷き、頬をまた撫でてきた。
「私が、女役なのか?」
念のためにもう一度確認を取ると、今度はシャツのボタンを外していたビリーの手が、ピタリと止まった。
「……イヤ、かい?」
そこで強引にいけないところが、たぶん、ビリーの悪いところであり、また逆に良いところでもあるのだろう。グラハムは少し考えた末に、自らソファへと横たわった。
「よくわからないから、君の好きなほうでいい」
「わからないって、君ねぇ……」
ビリーは少々呆れたようなニュアンスを含んだ溜息をつきながら、それでもボタンを外しにかかっている。
「まったく興味がないわけじゃないだろう?」
その問いに、グラハムはまた少し考えた。
「と思うが。でもやはり空を飛ぶほうが好きだな」
「やれやれ。君の女神さまはずいぶんと罪作りだよ」
笑いながら言うビリーだったけど、グラハムはその台詞に何かが引っかかった気がした。
空は確かに大好きな存在で、できることならこの手につかみたいと思っているほど焦がれている。でも、グラハムの望みは叶えられないのだ。そして叶えるようなものでもない。
では、この手は何をつかめばいい?
何を望めばいい?
自分が本当にほしいと思っているものはなんだ?
そこがずっと、ぼやけたままではなかったか。足りない何かを求めていなかったか。
いくら手を伸ばしたって、空は何も与えてなどくれないことを、自分はちゃんと知っているだろうに。