うみものがたり
『another side,another story』 ヤト
――――――――――――――――――――
菊の名前が出てくると、アーサーは本をめくっていた手を止めた。視線は本に注いだまま沈黙し、ふと空気すら静止を見せたようだった。注がれた視線は本から外れることはなかったが、読み進めているわけでもなく、ただ文字の羅列を眺めているだけのようだった。やがて目を伏せて短く息を吐くと本を閉じて立ち上がり、アルフレッドにその碧緑の瞳を向けた。
「―菊は、どうしてる?」
「変わりないよ。あとで顔見に行ってあげなよ。喜ぶよ」
「そうだな」とつぶやいた口元が優しく微笑んだようだった。
それだけ言うと、アーサーは戸棚から紅茶葉の缶を取り出すと薬缶にお湯を沸かし始めた。手際よくお茶の準備を始めるのを見ながら、アルフレッドはソファに座った。「お茶はほしいけど、スコーンはいらないんだぞ」と後ろから揶揄すると「た、頼まれたってお前になんか作ってやらねぇよ」と相変わらずの強がった返事があり、少しだけ安心した。テーブルの上に置いてあった先ほどまでアーサーの読んでいた本を手に取ると、パラパラとページをめくってみた。アルフレッドには見慣れない文字が並び、本のページも古く色あせ、所々破れている。これがどこか異国の地の、それも長いこと眠っていたものだとわかった。こんな本を見れば、アルフレッドの好奇心もうずきだして言った。
「俺も絶対海に行くんだぞ」
「止めろって言ってるだろ。お前には危険だ」
間髪入れず、アーサーの牽制の声が上がる。
「そうやって子ども扱いしないでくれよ。別に俺は君みたいな海賊になろうってわけじゃないんだぞ!ただ、自分の知らないものをこの目で見に行きたいんだよ」
「お前はそのつもりでも、向こうは違うだろ。相手が誰であろうと襲う野蛮な連中もいる。それに―」
アーサーの言葉が止まった。
しんしんとお湯の沸き始めた音だけが室内に残る。アーサーは言いかけた言葉を溜息に変えて吐き出すと、「とにかくお前には危険すぎる。止めておけ」と強く念を押すに留めたのだった。アルフレッドは頬を膨らませ「納得できないんだぞ」と言い返してみたが、それ以上アーサーからは何も返っては来なかった。手に持っていた本をテーブルへと戻すと、そのテーブルの傍らに小箱があることに気がついた。片手に収まる丸みのある蓋をした木製の小箱であった。手にとって開けてみると、そこには数個の白い貝殻が入っていた。よく見るとただの白さではなく、表面が砂金を散りばめたようにきらきらと輝いていた。手にとって光にすかすと、白に金に色を変えた。