幸せになろうよ
風丸は膝の上で手を痛いほどにかたく握りしめた。その手に、綱海の右手が重ねられる。
「だったら、その時はオレがお前を引っ張りあげてやるよ。で、オレがだめな時はお前が引っ張ってくれりゃあいい」
触れる綱海の手から、彼の温度が風丸の体に伝わっていく。
「……俺が、お前を引っ張りあげれなかったら?」
「お前って、本当悪い方向にばっかり考えるよな……。まぁ、そん時は一緒に溺れてもいいんじゃねぇのか? 一蓮托生だぜ。一緒にいるって、楽しいことばっかじゃなかっただろ? つれぇことも、苦しいこともあるけど、それも全部ひっくるめてふたりで半分こにすれば、痛みも半分になるだろ?」
夜に冷やされた海風がふたりに吹きつけるが、綱海に重ねられた手だけはあたたかかった。
(やっぱり、あったかいや)
風丸は、今日のイルカショーの会場での出来事を思いだした。いままでこうしてふたりで触れあったことを思いかえした。そて、いつだってこの手に力づけられたことにあらためて気づいた。心が凪のように穏やかになって、不安も苦しみも遠く離れていく。水のなかにいるのに呼吸ができるような。綱海の手から彼の力が伝わって、自分に分け与えられているような気がした。
(自分の力は信じられないけど、)
この手の温もりだけは信じていたかった。風丸は一度軽く目を閉じて、そして開いた。目の前に、彼がいた。
「……綱海」
「ん?」
「お前は、本当にそれでいいのか? これから先、俺と一緒にいて楽しいこともあるかもしれないけど、それ以上に苦しいことやつらいことばっかりの道でも」
風丸は息を飲んで綱海の返事を待った。握りしめた手にさらに強い力がこめられて爪が手のひらに痛いほどに食いこんだが、風丸はそれに気づかなかった。世界から波の音が消えて静かになっていく。その世界に、綱海の言葉だけが音となって響く。
「だから、言っただろ。オレの一番の幸せは、お前と一緒にいることだって」
綱海の言葉に、もう風丸はなにも言葉にできなかった。また目の奥が熱くなって、先とは違う意味の涙があふれでそうになる。それをこらえるように、風丸は自分の手に重ねられた綱海の手を握り返した。綱海は空いているもう一方の手をその手に重ねて、両の手で風丸の手を優しく包みこんだ。
「……つーことで、あらためてさっきの返事をお前からちゃんともらいてぇんだけど……」
綱海は体をもじもじと落ちつかなそうによじった。しかし、風丸には綱海の言葉の意味がわからなかった。
「さっきの返事って、なんのことだ?」
風丸の言葉に、綱海は目をおおきく見開き、そしておずおずと切りだした。
「……いや、オレ言っただろ? その、これからもお前と一緒にいたいって」
「それがどうかしたのか?」
綱海は勢いよく肩を落として、ひどく落胆した。そのあまりの落ちこみっぷりに、風丸はすこし不安になり、どう言葉をかけるべきなのか悩んだ。そして風丸が言葉を発するよりも先に、綱海の口からぽつりと真実が告げられた。
「あれ、プロポーズのつもりだったんだけど……」
一瞬の間。
「はあああああああああああああああああああああああ!?」
風丸は腹の底から叫んだ。海辺に風丸の叫びが響きわたる。
「なななななな、なに言ってんだお前!?」
「……あの、そんなに驚かれるとこっちがショックなんだけど」
「ご、ごめん……。いや、じゃなくて、プ、プロポーズってなに!? あれが!? てか、俺たち結婚とかできないだろ!? 無理だろ! なにプロポーズしてんのお前!?」
頭が混乱して、思いついた次第の言葉を風丸は叫ぶ。そのひとつひとつが刃になって綱海の心に刺さっていく。
「……いや、確かに法律上はできねぇけどよ、まぁ形だけって言うか、せめてちゃんと言葉にしてお前に伝えたかって言うか」
混乱が絶頂に達して痛みだした頭を風丸は抱えた。風丸の言葉に傷を負った綱海は、膝を抱えて傷が癒えるのを待った。そんなふたりに波及されることなく、波は穏やかに浜に打ちよせる。
長い、たっぷりの時間を置いて、風丸はようやくひとつの結論にたどりついた。
「やっぱり、さっきのお前の台詞がプロポーズとかわかりにくい!」
「あんだけ考えて、言うことがそれかよ! ……まぁ、お前ってにぶいところあるもんな。オレが初めて告白した時も、全然気づいてくれなかったし」
「あ、あれは、お前が金無いからピザまん割り勘にしようぜとか言って、ピザまん半分こにして食ってる最中に『オレ、ピザまんよりお前の方が好きだな』とかって言うからだろ! 普通、あんな言い方されたら誰だってわかんねーよ!」
「あー、わかったわかった! はっきり言えばいいんだろ! はっきり言えば!」
「そうだよ!」
叫びすぎて疲れた風丸は肩で息をした。綱海はそんな風丸に向きあうと、唇をかたく結んで上着のポケットからちいさな青い箱を取りだした。それを風丸の目の前に差しだして、蓋を開けた。なかには、ちいさな青い宝石が埋めこまれただけのシンプルなデザインの指輪があった。南国の青い空を映しこんだ海の浅瀬のところのような色をした宝石が、月の灯りを受けてきらりと輝く。
「……風丸。オレは、お前のことが世界で一番大好きだ。だから、おっさんになってもジジイになっても、死ぬまで一緒にいたい。結婚してください」
綱海の目がまっすぐに風丸の目を射ぬく。風丸は視線を綱海の目と指輪を行き来させるだけだった。
「……あの、返事は?」
綱海のちいさな催促に、風丸は戸惑った。どう答えるべきなのだろうか。頭のなかをたくさんの言葉が駆けめぐって渦を作る。
「……あ、ああ。えーと、その……俺で良ければ、よろしくお願い、します……」
そう言って、風丸は頭を勢いよく深く下げた。恐る恐る顔をあげると、綱海がいまにも泣きだしそうなほどとても嬉しそうに笑っていた。世界で一番の幸せ者のように笑っていた。
「手、出して」
綱海の言葉に、風丸は一瞬、左手と右手のどちらを出せばいいのかわからなくて悩んで、左手を差し出した。恥ずかしいくらいに左手は震えていた。けれども綱海の左手がその手を取ると、不思議と震えがおさまった。代わりに、心臓が痛いくらいに震えだした。
綱海の右手親指と人差し指につまれた指輪が、風丸の左手薬指にそっとはめられていく。その動作が風丸の目にはあまりにゆっくりとスローモーションのように見えた。どくん、どくんと、心音がどんどん高鳴っていく。風丸は手を通じて、その音が綱海に届かないことを願った。指輪はようやく第一関節を通りすぎて、そして、第二間接の手前でその動きを止めた。
「ん?」
「あれ?」
ふたりの声が重なる。
「え、ちょっと待って、おかしいな?」
綱海は先へ押しこもうと、ぐいぐいと指に力をこめた。しかしやはり指輪はそれより先に進まず、風丸の指がぎちぎちと悲鳴をあげた。
「ちょ、綱海、痛い! 痛いって! 無理無理!」
風丸の抗議に、綱海は慌てて手を離した。指輪は風丸の薬指の途中で不格好にはまっていた。
「……悪ぃ、サイズ間違えたみてぇだ。今度、店に行って取り換えてもらうわ」
そう言って、風丸の指から指輪を外そうとする綱海の手を風丸は止めた。