幸せになろうよ
綱海の言葉が、穏やかな波のように風丸を包みこむ。それがひどく心地よくて、思わず身を委ねてしまいそうになるのを風丸はすんでのところでこらえた。
「……もう、これからはないって言っただろ」
「やだね。オレはお前と別れたくねぇもん。つーか、絶対別れねぇ!」
子どもの地団太のように頑なに綱海は拒否の意を示した。
「綱海……。だから、それじゃだめなんだって」
「なにがだめなんだよ?」
「……俺といても、お前は幸せになれない」
自分には綱海に最大値の幸せを与える力はない。そううなだれる風丸に、綱海は露骨にため息をはいた。
「つーかよぉ、お前ってなんか勘違いしてね?」
その言葉の意味が理解できず、風丸は綱海を見やる。そんな風丸を見て、綱海は仕様がないなという風に笑った。
「ちょっと、一から整理しようぜ。まず、オレたちは他のやつらみたいに人前で手をつないだりとかができない」
綱海は、右手の人差し指を立てた。風丸は黙って綱海の言葉の続きを待つ。
「ぶっちゃけ、オレは人前で手をつなぐのに抵抗はねぇぞ。男同士だからってビクビクしたってどうしようもねぇし。恋愛は楽しんだもん勝ちだろ? でも、お前は嫌なんだよな。で、オレはお前に無理強いしてまでそうしたいとも思わねぇ。そりゃ、手はつなぎたいけど。だったら、家でその分たっくさんつなげばいいし、今日みたいに隠れてやりゃあいいし。だから、オレは別にお前が言ったみたいに、自分たちの関係を後ろめたいとかそんな風に思ったことは一度もねぇ! ……ここまで、わかったか?」
風丸はこくりと首を縦に振った。綱海はそれを見て、満足したように笑った。そして、人差し指の隣の中指を立てた。
「……で、次の問題だ。オレは子どもが好きで、お前はいつかオレが誰か女のひとと結婚して、子どもをつくって、そいつらと暮らしていくのがオレの一番の幸せだって、お前はそう思ってるんだよな?」
風丸は再び首を縦に振った。すると、綱海は指を立てた手を力なく落として、肩も落とした。そして、また深くため息をついた。
「……なんかもう、正直どこからつっこめばいいのかわかんねぇんだけどよ、そもそもオレがいつ『子どもが欲しい』なんて言った?」
風丸は首を縦にも横にも振らなかった。頭をめいっぱいに回転させて綱海との記憶をさかのぼるが、該当するような記憶はひとつもなかった。
「オレ、そんなことお前に言ったことないだろ?」
「……でも、いつか自分の子どもが欲しいって思ったことくらいはあるだろ?」
風丸の反論に、綱海はすこし返事に戸惑った。
「……そりゃ、まったく思ったことがねぇって言えば嘘になるけどよ。でも、いまは絶対欲しいなんて思ってねぇぞ。そりゃ子どもは好きだけどよ、クラブのガキらもなんかオレの弟たちってか、子どもみてぇに思えることもあるし。だからこれから先、オレの子どもがいようがいまいが、別に構わねぇよ。……てか、正直自分の子どもとかそんな話されてもいまいちピンとこねぇのが本音だな」
いま、現実に存在しないものの話をしても実感できないという綱海の言葉は道理でもあった。だが、それでも風丸は納得できず引き下がらなかった。
「いまはわからなくてもさ、これから先、いざ本当に自分の子どもが欲しいってなったらどうするんだよ。いまの俺たちの年齢ならまだ十分に間に合う話だろ。だから、俺は手遅れになるくらいならいまのうちに別れた方が――」
「だーかーらー! そもそもその前提が間違ってるっつーの!」
風丸の言葉を、耐えきれないという様に綱海は叫んでさえぎった。
「お前ってなんでそんなに子どもにこだわってんだ? 世の中には、子どもがいない夫婦だっていっぱいいるぜ。そのひとたちは、幸せじゃないって言うのか?」
「そういう訳じゃないけど……」
綱海の正論に、風丸はそれ以上なにも言えなくなり、肩をすぼめた。
「だろ? オレ、幸せってのは人によって違うんじゃねぇかなって思うんだよ。だから、お前が言う『オレの幸せ』は、オレの幸せとは限らないって言うか、勝手にひとの幸せ決めてんじゃねぇよ!」
綱海は言葉に任せて砂浜に拳をたたきつけた。砂が飛ぶ。突然の怒気に、風丸は思わず肩が震えた。
「……怒ってる?」
「……ちょっと」
「ごめん……」
謝る風丸になにか言おうと綱海は口を開いて、結局閉じた。握りしめたままの手を開いて、閉じて、また開いて、閉じた。
「……いや、まぁ要はお前なりにオレのことを考えてくれてたわけだろ? ちょっと見当違いすぎただけで。だから、もういいよ。気にすんなって!」
そう言って、綱海はいつものように笑った。その笑顔を見て、風丸はようやく土に足がついたように心が安堵するのを覚えた。
「オレは、結婚して子どもをつくるってのが自分の一番の幸せだなんて思ってねぇよ。……いまのオレの一番の幸せは、お前と一緒にいること! ただそれだけだ! だから、これでお前が言うオレたちが別れる理由はなくなっただろ?」
「いやでも、それはいまの話で、これからやっぱり気が変わったら……?」
それでも引かない風丸の言葉に、綱海は脱力した。
「お前って、本当に頑固だよな……」
「……だって、俺たちのこれからの人生のことだぞ。これでもかってくらい、真剣に考えて、悩んだってしかたないじゃないか」
人生は平坦で穏やかな一本道が続いていたかと思えば、角を曲がった途端に絡みあった蔦のように複雑な道が現れる。どの道を選べばいいのか悩み、足が止まって動かなくなる。先の見えない不安が体を足先から頭の先までいっぱいにおおって、視界が闇に染まる。そこに、空から一条の光がくもの糸のように降りてきた。
「あのな、明日のことだってなにが起こるかもわかんねぇのに、これから先のことなんてどうなるか全然わかんねぇだろ。でも、そんなの気にしたってどうしようもねぇよ。なるようにしかならねぇんだから。波と一緒だぜ。次、いつどんな波がくるかわかんねぇ。でもどんな波が来たって乗りこなすのがサーファーだぜ!」
そう腕組みして力説する綱海の強さが、風丸にはひどくまぶしかった。
「……もし、乗りこなせなかったら?」
「そしたら、次の波にチャレンジするだけだ! ……でもオレは、お前と一緒ならこれから先どんな波が来たって乗りこなせる気がするぜ」
綱海はそう言うと照れたように笑って、風丸から顔を背けた。
風丸は綱海の横顔越しに、その向こうに広がる海を見た。月に照らされて明るい海だったが、夜の色に黒く染められていた。それでも綱海ならきっとこの海にも飲みこまれず、光を見つけて渡って行けてしまうのだろう。どこまでも遠くへ。
(けれども、)
「……俺にはそんな力ないよ」
綱海が持つ強さは、風丸にはないものだった。もう十年以上も前から何度もその強さに助けられ、支えられてきた。それが風丸にはまぶしくて、まぶしすぎて、時に羨ましく、妬ましくさえ思ったこともあった。
(だからこそ、惹かれたのかもしれないな)
自分にないものを持つ彼に。
「誰も、ひとりで乗り越えろなんて言ってねぇだろ。オレと、お前のふたりで乗り越えるんだよ」
そう綱海は風丸を励ますが、風丸はまだ足を踏みだせなかった。
「……俺じゃあ、お前の足を引っ張るだけだよ」