幸せになろうよ
「おー、十年前とまったく同じだなー」
「リニューアルしたって話も聞いてないしな。魚の種類は変わってるかもしれないけど」
「なんか、初めてのデート思いだして懐かしいな」
大きな水槽のなかを色鮮やかな魚たちがなめらかに泳いでいた。綱海はその向こうに十年前の記憶のかけらを探すように水槽を眺める。
「十年前、ここでどんな会話したか憶えてるか?」
「さぁ……なんだったっけ」
期待に応えられる回答ではなかったが、綱海は気にした様子もなく、嬉しそうに思い出を語った。
「お前さ、オレがこの水槽見て『沖縄の海もこんな風に魚がいっぱいいるぞ』って言ったら、『へー、食べ放題だな』って言ったんだぜ。で、『あの魚は刺身にすると美味いぞ』って言ったら、『そんな見方すんな!』って怒るし。それなのに帰りは海鮮丼大盛り食うんだもんな。あの時は面白かったなー」
綱海の話を聞きながら、風丸は水槽に映る自分たちの姿が十年前の自分たちに見える錯覚を覚えた。
本当は十年前の会話も、なにもかもすべて憶えていた。忘れることなんて、できやしなかった。忘れたふりをしたのは、いまの自分に綱海とその思い出を懐かしむ資格はないと思ったからだった。
(いや、思いだすとつらくなるからか……)
けれども、ここにはあちらこちらに十年前のかけらがあって、そのすべてから目をそらすのは難しかった。
「でさ、十年前は言えなかったんだけど……オレ、あの時お前に言いたいことがあったんだ」
「……なに?」
綱海から返事はすぐになかった。綱海の視線は魚や、水槽の上できらきらと輝く水面へと泳いで落ちつかない。しばらくして、水槽の前にある手すりを強く握りしめたかと思えば、意を決したように綱海は風丸に向きあった。
「お前にさ、こんな水槽じゃない、沖縄の海を見せてやりてぇんだ」
綱海の表情は、言葉にふさわしく真剣なものだった。だがすぐに、それは照れたように笑ってくずれた。
「今度さ、長い休みが取れたら……一日だけでもいいからさ、一緒に沖縄へ行かねぇか?」
綱海はやわらかく顔をほころばせて、風丸の返事を待った。
(今度、一緒に……)
そのあまりに魅力的で誘惑的な言葉に、風丸は思わず首肯しかけた。綱海と彼の故郷の海を眺めること。それは風丸も強く望んでいたことだった。いつかそれが現実になったら、どんなに幸せなことだろうと。
(けれども、もう……)
それは望んではいけないことだった。いまのふたりには遅すぎる未来だった。
「……綱海、俺は――」
「おとうさん!」
「わっ!」
風丸の言葉を遮ったのは、幼い誰かの声と綱海の驚きの声だった。綱海の視線は風丸にではなく、彼の足元へ向けられていた。その視線の方向に目をやれば、綱海の足に後ろから抱きつくようにちいさな男の子がいた。
「どうした、ボウズ?」
綱海の言葉に、足元の男の子が顔をあげる。丸いおおきな目をくりくりとさせて、綱海の顔を見る。すると、その顔がみるみるうちにゆがんで、目に涙が浮かんだかと思えば声をあげて泣きだした。その声に周囲の人間がこちらを注視する。その視線と泣き声のなかで、この状況にどう対応すればいいのか風丸は困惑した。綱海はしゃがみこんで男の子と目線を合わせると、その頭に手を置いてぐしゃぐしゃと強く撫でた。
「おーおー、とーちゃんとはぐれたのかー。じゃあ、オレが一緒に捜してやるよ! だからもう泣くな! 男は簡単にひとに涙を見せちゃいけねぇんだぞ!」
綱海の言葉に男の子はようやく落ちつきを取り戻したのか、泣き声はやみ、右腕で自分の両目を拭った。
「よーし、よくやった。じゃ、とーちゃん捜しに行くか!」
綱海は男の子をひょいと軽々と持ちあげ、肩車をしてやった。男の子は一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに離すまいと言わんばかりに綱海の頭にしっかりとしがみついた。
「っつーわけで、ちょっくら迷子センターに行ってくるから。悪いけど、お前待っててよ。先行っててもいいぞ」
「いや、この辺で待ってるよ」
男の子に肩車をしながら去る綱海の背中を見送って、風丸はフロアに置かれたベンチに腰かけた。
(……言えなかったな)
(ちゃんと、言わないと……)
風丸の目の前には、視界の端から端までいっぱいに青い水槽が広がっていた。
今日、風丸は綱海と別れ話をするために、ここに来たのだった。