幸せになろうよ
綱海を嫌いになったわけではなかった。むしろ、いまでもいままで以上に好きな気持ちはあった。けれども、風丸は綱海との関係を終わらせる決意を胸に秘めていた。
いつからそう感じるようになったのかはもう思いだせなかったが、綱海と一緒にいるとたまにひどく苦しくなることが風丸にはあった。もちろん一緒にいて楽しいと感じる時のほうが多かったが、その幸せな思いがより苦しさを増長させた。
例えば、いまがそうだった。風丸の目の前を、家族連れや男女のカップルが手をつなぎながら、楽しそうに幸せそうに水槽を眺めて歩いていく。
(俺たちは、ああやって人前で手をつないで歩くこともできないんだ)
自分たちの関係が許されないものだと思ったことはなかった。けれども、どこかで負い目を感じているのは事実だった。ひっそりと人目を避け、隠れていなければいけないものだと思っていた。
風丸には、目の前を行き交う人の歩く道が、水槽の上できらきらと輝く水面のように明るく、陽の祝福に照らされているように見えた。反面、自分たちの歩く道に陽がさすことはないと感じた。誰からも認められず、祝福されない道。
(別に誰かに認めてもらいたいわけでも、祝福されたいわけでもないけど)
それなのにその道を歩いていると、どうしてもひどく窮屈に感じることがあった。もうここから一歩も先に歩けないほどに胸が苦しくて仕様がなかった。
(自分だけなら、まだいい。でも、綱海もそう思ってたら?)
このことを綱海と話したことはなかったが、彼も自分と同様にそんな気持ちをどこかに抱えているとしたら。大好きな人が自分のせいで苦しんでいる。それは風丸にとって一番耐えられないことだった。
(一緒にいてつらいのなら、いっそ別れたほうがきっといい)
視線の先で、父親に肩車をしてもらっている子どもが隣を歩く母親に笑いかけていた。とても幸せそうで、とてもまぶしくて、風丸は視線をそらした。
(綱海にはこんな日陰の道よりも、あっちの陽のあたる道のほうがずっと似あってる)
先の、迷子の子どもと綱海のやり取りを思いだす。綱海は子どものあつかいに長けていた。勤め先の少年サッカークラブでもコーチとして子どもたちに慕われている。
(あいつ、子ども好きなんだよな)
(やっぱり、いつかは自分の子どもが欲しいって思うんだろうな……)
ただしそれは、風丸と一緒にいる限りかなわない夢だった。
風丸は軽く目を閉じて、綱海と、誰か女性と、その女性と綱海の子どもが三人で手をつないで歩く様子を想像してみた。女性と子どもの顔はうまく想像できなかったが、想像のなかの綱海は世界で一番の幸福者のように笑っていた。
(俺じゃあ、綱海をそんなふうに笑わせてやれないんだ)
風丸自身、自分でできるのならば綱海を世界一の幸せ者にしてやりたかった。しかし、それはできないのだ。それどころか、綱海からその幸せの可能性を奪っていた。
(俺といる限り、綱海は幸せになれない)
世界で一番大好きで、一番大切な人が幸せになれないと考えた時、風丸は潔く綱海の手を離すことを決意した。その決断は難しいことではなく、むしろぴたりとはまったパズルのピースのようにすんなりと風丸を納得させた。
(十年、か……)
綱海と結ばれて今日でちょうど十年目だった。この十年間は長く短く、楽しいことも悲しいことも嬉しいこともつらいこともたくさんあった。そしてそれ以上の幸せがあった。
(俺はもう、一生分の幸せをお前からもらえたよ)
今度は、その幸せを誰か別の女性に与え、その女性といまよりもずっと幸せになればいい。風丸が願うのはそれだけだった。
「おまたー。悪かったな、待たせて」
しばらくして、綱海が戻ってきた。
「おかえり。あの子は?」
「ああ、迷子センターに行ったら、ちょうど親御さんがやって来てさ。無事、再会できたぜ」
「そうか、良かったな」
「ああ、一件落着だぜ。……そろそろイルカショー始まるし、行かねぇか?」
「そうだな」
風丸がベンチから立ちあがると、綱海が歩きだす。風丸はその隣を、いつもよりすこしだけ離れて並んで歩きだした。