幸せになろうよ
夜の海は時間帯とシーズンオフもあって人がいなく、波の音だけが響いていた。月の白い灯りが海と砂浜に静かに降りそそぐ。
「結構冷えるな」
海風はやわらかかったが、この季節相応の冷たさを持っていた。
「上着、貸そうか?」
「いいよ。お前のほうが寒いの苦手だろ」
風丸がそう言った途端、綱海が派手にくしゃみをした。風丸は嘆息して、自分が巻いていたマフラーを綱海の首に巻いてやる。
「へへっ。さんきゅ」
綱海は嬉しそうにマフラーに顔をうずめた。
「なにしてんだよ」
「ん? 風丸の匂いがするなーって」
「変態かお前は」
「変態でもなんでもいいぜー」
おちゃらける綱海にあきれて、風丸は砂浜を先に歩く。綱海もその後を追う。砂浜にふたり分の足跡が残っていく。
さくさくと砂を踏む音と、波の音だけが世界に響く。会話はなかった。道の先に、流木があった。どちらともなくそれに腰かけて、海を眺めた。水平線が月灯りに照らされて、白くまっすぐな線になっていた。
緩やかな波の音を聴きながら、風丸はふと、このまま時が止まってしまえばどんなにいいだろうと考えた。
静かな世界にたったふたりだけで閉じこめられる。そうなれば、どんなに幸せだろう。
けれどもそう願ったところで時が止まることはなく、風丸はちいさく自嘲した。
(ここまできて、結局決心できないでいるんじゃないか)
決意したつもりでいたのに、いまだに実行できずにいる。そう、そもそもここまで待つ必要もなく、そう思った時に綱海に話していればいいだけの話だった。それでも今日までずるずると引き延ばしていたのは、自分のなかで未練があっただけに過ぎなかった。
(だって、仕方がないじゃないか)
十年だった。十年という月日を、風丸は綱海と共有してきたのだ。決意が揺らぐにはあまりに長く、充実した時間だった。
(でも、これ以上はもうだめだ)
いまなら、まだ十分間にあう。綱海が新たな幸福を手にする未来は、そう遠くない場所にあるはずだ。それを邪魔する権利は、風丸にはこれっぽっちもなく、その気もなかった。
(……言おう)
両手を痛いほど握りしめて、口を開く。が、音がでてこず、結局閉じて唇を噛みしめた。
言えなかった。
(……言いたくない)
頭が言えと言っているのに、体全身が拒否していた。心が叫んでいた。
(本当、どこまで自分勝手なんだ、俺は)
そんな自分にあきれて自己嫌悪して、どうしようもなくなる。目から涙があふれだしそうになって、こらえてうつむいた。すると、隣の綱海が心配そうに自分の名前を呼んだ。
「どうかしたのか?」
「……いや、なんでもない」
声が震えそうになるのを必死に耐えた。綱海は「そうか?」と言いつつも、まだ心配の色を顔に浮かべていた。
(そんなに優しくするな)
(俺はお前に心配されていいようなやつじゃないんだよ)
風丸が無理やり顔に笑みを浮かべると、綱海の顔がようやく安心したように笑った。
「今日は、楽しかったな」
綱海の大きな声が波の音を破って響く。
「ああ、そうだな」
風丸は顔に嘘の笑みを張りつけたままそれに答える。
「オレたちが付きあいはじめて、今日でちょうど十年。そんな大切な日をお前とこんな風に過ごせて、本当に楽しかったぜ。ありがとな」
「俺はただ福引きを当てただけだよ」
「そうじゃねぇよ。もし福引きが当たってなかったとしても、お前と一緒に過ごしたってのが肝心なんだよ」
「そうなのか?」
「そうなんだよ!」
綱海は急に立ちあがって、海に向かって高らかに力強く宣言した。そのまま波打ち際まで歩いて行き、海の前にひとり立ち臨む。綱海の背中は海に比べたらとてもちいさなものだったが、決して波に飲みこまれないほどにおおきく見えた。
すこしの間を置いて、綱海は海に背を向けてこちらに戻ってくる。風丸の目の前で立ち止まると、一度大きく深呼吸した。
「……この十年間でさ、今日みたいな記念日とか、誕生日とか、クリスマスとか、ふたりで一緒に過ごしてきただろ? いや、仕事とかで結局当日ダメになったりとか、つまんねぇことでケンカして台無しにしたこともあるけど……。でも、いろいろあったけどずっとお前と一緒に過ごすことができて、オレはすっげー嬉しかったって言うか、幸せだったって言うか……」
綱海の言葉は稚拙でしどろもどろで、視線も落ち着かずにあちこちをさまよっていたが、風丸へまっすぐに届いた。
「だから、その、オレは……。オレは、これからもお前と一緒に、過ごせたらいいなーって……。こういう記念日だけじゃなくて、そうじゃない毎日もお前と一緒にいれたらって思ってる。……てか、一緒にいたい!」
最後の言葉だけは、綱海はまっすぐに風丸の目を見すえて告げた。風丸は黙って、綱海の目と言葉を受けとめた。
(これからも、)
(一緒に……)
風丸は綱海の言葉を静かに頭のなかで反芻した。
綱海の言葉ひとつひとつが、鋭いナイフのように風丸の心に深くふかく突き刺さっていく。
(ああ、なんて、)
とても奇麗でひどく残酷な言葉を言うのだろう。
喉がからからに乾いて、手が震え、目の奥がひどく熱くなる。
(もう、無理だ)
風丸がそう思った時、耐えきれなくなった涙がぼろぼろとあふれだしてきた。泣いてる顔を綱海に見られたくなくて、風丸は冷えた両の手で顔をおおってうつむいた。
突然の涙に綱海が驚いて、風丸の肩に手を伸ばす。その手が肩に触れるよりも先に、風丸の口から引き絞るような声がした。
「綱海、俺たちもう別れよう」
先まではあんなにでてこなかった言葉がこうも簡単に飛びだしてきて、風丸自身ひどく驚いた。