幸せになろうよ
「いま、なんて言った……?」
風丸の告白に戸惑う綱海の声は、波の音にかき消されそうなほどにちいさかった。
「……もう、別れよう」
風丸は決死の思いでもう一度、その言葉を口にした。
「なんでだよ……?」
「そのほうが、俺たちにとって……お前にとって一番いいからだよ」
「いいってなんだよ!? 意味わかんねぇよ!」
荒ぶる綱海の叫びに驚いて、風丸の肩がビクリと震えた。
綱海は混乱して痛みを覚える頭をかきむしって、すこし落ちつこうとおおきくひとつ深呼吸した。
「……なぁ、どうしたんだよ? 突然、そんなこと言いだして」
「……どうもしないよ」
「オレ、お前になんか嫌われるようなことしたか?」
「……してない」
「だったら、なんで泣いてんだよ」
「……泣いてない」
「泣いてるだろ!」
綱海は風丸の手を力任せにつかんで、顔から引き離した。しかし、風丸の顔はうつむいたままだった。風丸のズボンの膝のところに涙の染みがひとつふたつと生まれていく。
「……なぁ、オレの顔見てちゃんと説明してくれ。オレ、頭悪ぃから話してくれねぇとわかんねぇよ」
綱海の口調は優しいものだったが、手の力は強く、風丸の両手首をぎりりと締めつけた。
「綱海。手、痛い。離してくれ……」
「ちゃんと話してくれるか?」
風丸はすこし考えて、ちいさくうなずいた。綱海はそれを確認すると、するりと手を離した。痛いほどの熱がようやく離れて、風丸は左手で右手首をさすった。赤くなっていた。
「……落ちついたか? じゃあ、話してくれ。なんであんなこと言いだしたんだ?」
綱海は風丸の前で膝をついて、風丸の目をまっすぐに見すえて言葉を待った。
風丸は濡れた両目を拭い、ちいさく深呼吸するとぽつりぽつりと話しはじめた。
「……だから、俺とお前は別れたほうがいいんだよ」
「だから、なんでそれがいいんだよ?」
綱海のオウム返しの質問に、風丸はどう説明すればいいのか頭でゆっくりと整理した。
「……前から、たまに思うことがあったんだ。お前は、俺とこうやってこそこそと隠れるような関係を続けるよりも、もっと堂々と……人前で胸を張って歩けるようなひとと一緒にいたほうがいいんじゃないいかって」
「ん? なんだ、こそこそって?」
「えーと……だから、ほら、俺たちって男同士だろ? だから、ふたりで歩いてても人前とかで手つなぐとかってできないだろ?」
「あー、はいはい。なるほど。で?」
「……別に、俺たちの関係が悪いことだなんて思ってないよ。でも、どうしてもどこかで他のひととは違うんだって負い目を感じることがあるんだ。誰かに認められたり、祝福されることはないんだなって。俺は別にそれでもいいとは思ってる。でも、もしお前が、お前もそう感じてたらって思うと、俺はそれがすごくつらい」
今日、水族館で見た景色を思いだす。青く輝く水槽の前で、きらきらと輝く幸せをまとって歩く家族連れや恋人たちの姿を。その光は、風丸のところまで届くことはなかった。
「俺は、綱海と一緒にいると楽しいよ。すごく、幸せだ。でも、それなのに苦しいんだ。お前が俺といて窮屈な思いをしていると思うと、俺がお前を苦しめてるんだって。だったら――」
「いっそ、別れたほうがお互いのためだってことか?」
風丸の言葉の続きを綱海がつなげる。風丸はこくりとうなずいた。
「だから、オレと別れようって言ったのか?」
「そうだけど、それだけじゃないんだ……」
言い渋る風丸に、綱海は静かに言葉の続きを待った。綱海の目は優しさをたずさえていて、穏やかに輝いていた。まるで目の前の海のように広く、なんでも包みこんでくれそうなほどに深い黒の瞳だった。風丸は手を握りしめて、再び口を開いた。
「お前、子ども好きだろ?」
「ん? まぁ、好きだけど」
「……俺は、お前はいつか誰か別の女性と結婚して、そのひとがお前の子どもを産んで、お前と一緒に生きていくのが、お前の一番の幸せだって思うんだ」
「……」
「当たり前だけど、俺は子どもなんて産めないし。お前もだけど。……だから、お前が世界で一番の幸せを手にするには、俺と一緒にいたらだめなんだよ。俺じゃあ、お前を幸せにしてやることはできないんだ」
「……」
「……だから、別れよう、綱海。お前の幸せのためにも。俺はもうこの十年間で十分すぎるくらいに、お前から幸せをもらったよ。本当に、ありがとう。……今度は、別のひとを幸せにしてやってくれ」
「……」
「……」
「……」
「……綱海?」
先から黙ったままの綱海の顔を風丸がのぞきこむ。綱海の顔は苦虫を噛みつぶしたように眉を寄せて、眉間にくっきりと皺が刻まれていた。怒っているのだろうか。風丸はふたたび綱海の名前を呼ぼうと口を開くと、それよりも早く綱海は突然立ちあがり、空に向かって声の限り叫んだ。
「あーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
そして、海に向かって走って行く。波打ち際まで着くと、再び今度は海に向かって叫んだ。何度も、何度も叫んだ。
綱海の突然の奇行に、取り残された風丸はただただその様子を見守ることしかできなかった。しばらくして、叫びすぎて息が切れた綱海が戻って来る。風丸の前で立ち止まると、おおきく息を吸いこんで、言葉とともに吐きだした。
「あー! もう、なんなんだよ、お前! 本当、意味わかんねぇ! いきなり別れたいとか言うからすっげーびっくりしたのに、その理由がそんなことかよ!」
そんなこと。そう切り捨てられて、風丸はすこし腹が立った。自分がどれほど「そんなこと」で苦しんでいたと思っているのか。風丸は立ちあがって綱海と向きあい抗議した。
「そんなことってなんだよ! 俺は真剣に悩んでたんだぞ!」
「だから、なんでそうやってひとりで抱えて悩んでんだよ! 苦しかったなら、一言オレに相談なりすりゃあよかっただろ!?」
一理ある綱海の言葉に、風丸は返す言葉もなくおし黙った。
静かになった風丸を見、綱海は深いふかいため息をつくとその場に座りこんでしまった。
「……怒鳴って、ごめん」
そして、ちいさくそうつぶやいてうなだれた。
(謝るのは、お前のほうじゃないのに)
風丸はおずおずと綱海の隣に座りこむと、頭を下げた。
「俺こそ、ごめん。……相談もせずにいきなりこんな話したら、誰だって混乱するよな」
「……オレって、相談もできねぇような頼りねぇヤツに見えるのか?」
風丸は首をぶんぶんと振って否定した。
「そんなことじゃないよ。……ただ、俺がお前に言うのが怖かっただけなんだ。お前に肯定されたらどうしようって。なんか、こんな話しておきながら矛盾してるけど」
風丸はちいさく自嘲した。綱海も力なく笑った。
「前々から思ってたんだけどさ、お前って本当になんでもかんでも抱えこんで、ひとりで考えて悩んで、どうしようもなくなるよな」
痛いところを正確に打ち抜かれて、風丸には返す言葉もなかった。
「ま、それがお前の悪いところでもあるし、いいところでもあるって俺は思ってるよ」
「……どっちなんだよ、それ」
「要は、お前が抱えこんだもんをオレにも半分持たせてもらいてぇってことだよ」
「……」
「頼むからさ、もうこれからはひとりで抱えこむのやめてくれよ」