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[ギルエリ]黒い森の蝶の館[娼館パロ]

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[chapter:2]


耳を切る冷たい風も、逸る気持ちに拍車をかけるばかりだった。
ギルベルトは声を上げて馬を急かす。愛馬は主人の求めに応えて、地響きを轟かせながら速度を上げる。

黒い森の奥深く、明かりを辿って馬を飛ばせばその先に煌々と常夜灯のきらめく館がある。
そこでは蝶のように着飾った美しい女たちが、ポケットを金貨で膨らませた男たちの周りを飛び回っている。
金と甘い言葉と、優しい笑顔が揃うなら、拒むことなど万に一つもないであろう女たちの中、
あいつはきっと今夜もひとりつまらなそうに窓を見ている。

その女の髪は陽に透ければ金色に輝くが、夜の館では茶褐色に見えた。
その女は、かつては壊れた柵の穴を抜けて羊を追い掛け回すのが好きな悪童だった。
叱られるとすぐに木に登って、乾いた泥を貼りつけた裸足をぶらぶら揺らしていた。
ギルベルトが彼女と遊ぶことに、乳母も家庭教師も難色を示した。
けれど、屈託なく笑い、ギルベルトの革靴を履いた足を裸足で追い抜いて行く駿馬のような少女は、
ギルベルトの心を捉えて離さなかった。もうずっと。そう、10年にはなる。
年が近いというだけでじゃれ合ってふざけ合った頃から少し大人になり、
ギルベルトが侯爵家の後継者としての教育を本格的に受けるようになると、
彼にも彼女の特異さが見えてきた。

エリザベータ、という名すら、10歳になるまで知らなかった。
物心ついた時には既に、裏の水車小屋の子として庭園に入り込んではギルベルトと遊んでいたのだから、
実に5年近くの間、ギルベルトは彼女の名前を知らずにいたことになる。
彼女はつぎはぎだらけの服を着て、長い髪を馬の尾のようにうなじでくくっていた。
だからずっと、ギルベルトも周囲の者も、彼女を少年だと思っていた。
じゃれ合って突き飛ばした胸に固いしこりを探り当て、怪我か病気ではないかと疑って薄汚れたシャツを引きはがし、
初めて真実を知ったのだった。
ねずみ色にくすんだ、サイズの合わないシャツの下の肌は白く、ほんのり上気してほのかに紅く色づいていた。
無理やり服をはぎ取るために馬乗りになっていたギルベルトは、顔をそむけたまま無言の幼馴染に
得体のしれない罪悪感を覚えた。
そのトゲは、異性を見るたびに彼女を思い出すという毒をギルベルトに残した。
「名前、聞いてなかった」ギルベルトは急いでシャツから手を離し、目いっぱい顔をそむけて言い訳をした。
名前さえ聞いていれば、彼女が女性であることは間違わなかったと言いたかったが、
それでは外見では分からなかったのだと見抜かれる。どうしてかそれだけは避けたくて、必死に言いつのった。
「エリザベータ、だよ」と、埃に汚れた頬の下で悔しそうに少女は告げた。
そして、翌日からは仏頂面で古ぼけたワンピースを着始めた。
髪を下ろして女の子の服を着ただけで、あっと言う間に普通の女の子になってしまったやんちゃ坊主に、
ギルベルトはあっけにとられた。
「約束してたんだ、バレたらこれ着ろって」ため息をつきながら汚れたエプロンのリボンを結び直し、エリザベータは笑った。
「そんで、15になったら娼館へ行く」
あたし、高い女になるんだよ。
無邪気に微笑む少女の言葉と表情の矛盾に打たれ、ギルベルトは何も言えなかった。
彼は初めて、エリザベータと自分が住んでいる世界の境界線を感じ取ったのだった。

ギルベルトは馬を走らせ、軽くいなしながら玄関先へたどり着く。
ひらりと降りた瞬間、値踏みをする視線が軽やかに投げかけられ、そして笑みを含んで逸らされる。
この娼館の者は皆、侯爵家の跡取りが何にご執心か知っている。
「ようこそおいでくださいました」
シルクのドレスが分厚いじゅうたんを滑る衣擦れの音を立てながら、女主人がギルベルトを迎え入れる。
「エリザベータは」
「すぐに参りますわ」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、鮮烈な新緑の視線がギルベルトを射抜いた。
「ようこそ、次期侯爵様」
カケラの笑みも浮かべないまま、ドレスの裾を持ち上げて腰を折る。
エリザベータの眉ひとつ動かさない冷淡な態度と、強烈に輝く緑の瞳にギルベルトはいたく満足した。
侯爵家の長男が通い詰めているという評判は、彼女の取る客を増やす結果には繋がっていないようだった。
エリザベータは価値の高い女だが、その価値はギルベルトだけが知っていればいい。
たとえどれだけ孤立しようと、やっかまれようと、エリザベータが折れないことも承知している。
面倒な女だと客が遠ざかれば遠ざかるだけ、恋人のように彼女を独り占めにできる。
差し伸べられた、絹の手袋に包まれた腕は、あの日見たシャツの下の素肌を思わせる白さを保っている。
「なかなかだな」ギルベルトは女の腕を引き寄せながら耳元で囁く。
深い緑のドレスは、瞳の色に合わせてギルベルトが見立て、仕立てさせたものだった。
陽の光の下ならば、若草色のワンピースがきっと似合う。
けれど夜の明かりの下では、闇のように深い陰影を織りなす繻子のドレスが彼女にはよく似合っていた。
「光栄ですわ」
棒読みの言葉を返すと、エリザベータはドレスの裾をさばいて大股に歩き出す。
歩きにくいのは嫌いだと、コルセットの膨らんだ部分を勝手に外してしまったのだそうだ。
自分のやりたいことを貫き通す彼女らしい。
「こちらへどうぞ」
ドアを開けて、娼婦は客が部屋に入るのを待つ。
「何しに来たのよ、ギルベルト。いい加減わかってるんでしょう」
後ろ手にドアを閉めるや否や、睨みつけられてギルベルトは両手を上げた。
「今日こそは、噂のエリザベータ姫にお相手いただけないかと思ってな」
「しない、って言ってるでしょ!?」
エリザベータは白い手を無造作に伸ばして、ギルベルトの襟を掴んだ。
顔を寄せて小声で凄む。
「私はもう他にもお客を取ってるし、あなただって私を身請けするつもりもないでしょう」
自由を奪うだけのつもりなら帰りなさい、と次期侯爵の愛妾の地位をすげなく振り払う。
エリザベータとのじゃれ合いを厳しく制した父は既に病の床にあり、ギルベルトの爵位継承は間近に迫っていた。
今年の社交シーズンは、この娼館とはくらべものにならないほどの数のレディたちが彼をベッドに誘い込もうとしている。
そんなさなか、大切な夜会の誘いを蹴って通い詰める彼の想い人は、娼婦でありながら彼だけを拒む。
「夜明けまで寝て行く」
クラヴァットを緩め、上着を放り出してシャツをはだけるギルベルトを横目に、エリザベータは腰に手を当ててため息をついた。
彼女は水車小屋の、住込みの水車番が拾った子供だった。
旅の途中で娘を産んだジプシーが、置き去りにしていったのだと水車番は彼女に教えた。
誰に教えられずとも歌い、踊り、裸足で駆けるエリザベータには確かにジプシーの血が流れていた。
彼女は所有されることを良しとしなかった。水車番が、領主である侯爵を遠く仰ぎ見て恐ろしがる意味も知らず、
その息子と転げまわって遊んだ。
彼が自分に淡い恋心を抱き始めたのを察した時、エリザベータはこの地を捨てようと決意した。
ギルベルトが権力者の息子だからではない。彼の情熱が自分を絡め取る日を疎ましく思った、それだけのはずだった。