粉雪
「…本当に何も無くて」
まだ若そうな男は困ったように、幾分照れたように笑い、マグカップからスプーンを掬い上げてコーンスープを差し出した。
トレイなどという気の利いたものがないため、ビスケットはソーサーに置いてサイドテーブルへ。
「…ああ、熱いからよく冷まして」
そのままスプーンに口をつけようとした少年に、慌てたように男は付け足した。無意識に目を伏せて、スプーンから湯気を立てるスープの上を吹いて冷まそうとする。
まるで母親のようなその振る舞いに、少年は唖然と目を見開いた。だが我に返った男としても、自ら動揺を深めてしまうような仕種だった。無意識だったのがまた恐ろしい。
「………」
しかし、もしかしたら空腹を感じていたのかもしれない。
少年は冷まされたスープをたどたどしく啜った。そして、それが、たとえば捨て猫や捨て犬を拾った後に初めて手から食事を取ってくれた喜びに近くて、男も安堵したように破顔する。
何度か繰り返すうち、少年は自らカップを取り、かきこむようにスープを啜った。ロイはむせないように注意しながら、時折その背中をぽんぽんと叩いてやる。子供の面倒を見たことはなかったが、目の前にいるのは小さな子供ではなかったし、病人や怪我人だったら看たこともあった。そして彼はどちらかといえばその範疇である。
「……落ち着いたら、薬を飲んでもう少し休むといい」
食べられるかと差し出したビスケットに首を振った少年に、ロイは穏和にそう言った。ここまで誰かの面倒を看られる自分が正直自分でも意外だった。どちらかといえば、面倒は看てもらう方なのだが。
「…あり、がと…」
そんなロイをじっと見ていた少年だったが、金色の目を惑うように伏せて、その後蚊の鳴くような小さな声で礼を述べた。
戦場での、神がかった彼を知っていた。大総統府で隙のない目をしていた彼を見たことがあった。大人に囲まれ、笑うこともなく、泣くこともない。そんな姿だけなら知っていた。
だが今目の前にいる人間は、本当にあれと同じ人物なのだろうかと思ってしまうほど、消え入りそうに弱々しく見えた。ないと思っていた庇護欲を呼び覚ますくらいに。
「…礼なんていい。…とにかく、よく休め」
気になっていることはたくさんあった。なぜ彼がここにいるのか、なぜここまで弱っているのか、など。
いや。
なぜ、大総統の狗になどなったのかと。
「……」
だが――
「…眠るまでそばにいてやる。だから、安心しなさい」
何かを暴く気には、到底なれそうもなかった。
奇跡的に発見した最後の解熱剤をどうにか飲ませ(極め付けに「奇跡的」だったのにはそれが使用期限一ヶ月前を切っていたことも含まれる)、クッションを崩して、ロイは再び少年を横たわらせた。そうしてありったけの布類で掛布の上に小山を作る。本当は毛布をもっとたくさん用意できればよいのだろうが、そんな余計なものは一人暮らしの彼の家には常備されていなかった。また、そういった入用のものを隣家から借りられるほどにコミュニケーションをとっていたわけでもないし、とっていたとしても、この少年を匿うようなことをしているのはあまり外部に知らせないほうがいい類のことだった。
とりあえず、重くすると暖かい。
これでも足りなければ自分が圧し掛かるしかないかと本気で考えてから、…ロイは我に返って自分に呆れた。そこまで考えた自分に対してもそうだが、そうした場合の映像を想像して脱力した部分もある。なんだか間が抜けていると思った。
適当にカップを片付けてから、もう一度様子を見に戻る。
どの道この家にはベッドは一台しかなくて、そしてベッドの回りに必要なものやすぐに見たいものを取り揃えて…いるというより持ち込んでもとの場所に戻していないので、他の部屋にいる理由があまりなかった。勿論、病人を放っておくのも気がかりだというのもあるにはあるのだが。
「………さ…」
「……?」
布団というか布の山の中でさえ身を丸めて、少年は何かうわごとのようなものを口にしていた。うなされているようだった。ロイは思わず近寄って、そっと上掛けの一部を剥いでみる。そして…、
「……」
柳眉を歪めているのは苦悶の表情に違いあるまい。そして、白い頬には透明なしずくが落ちていた。熱にうなされているというよりは、悪夢にうなされているようだった。ロイは瞬きも呼吸さえ止めて、その姿に一瞬見入っていた。
「…かぁ…さ…」
母親を。
少年は母親を求めて泣いているようだった。それは幼い子供であればそう奇異なこともでもないのだろうが、こと目の前の少年となればそれは話が別だった。見かける際は私語などひとつもない少年。物静かに凍りついた、それこそ銘と同じく鋼のような、熱の通わない…。
先ほどスープを冷ました時と同じ、本当の無意識だった。ロイは思わず膝をついて、手を伸べ白い頬に触れていた。自分の額を伏せて、守るように顔をつける。片手で頬を押さえ、もう片手は毛布の中の手を探して握り締め――ようとして、それが正真正銘鋼の手であることに気づいて愕然としたが、すぐにその動揺を払拭するようにぎゅっと握り締める。
かける言葉は何も思い浮かばなかったが、それでもぎゅっと胸に抱きこむ。
かつて自分も在った戦場で助けられなかった仲間、同じ人間であるはずなのにその尊厳を踏みにじられた人々の姿、その時の結局は無力だった自分への憤りが胸を占めていた。今目の前にいるのはそのどれとも、誰とも違うが、たまらなかった。
何度か小さな頭を、頭蓋の形さえ感じられるほど強く、抱きしめなおしながら頬を摺り寄せた。いつか、「大丈夫だ」とわけもわからず繰り返していた。何が大丈夫なのかもわからなかったが。
積もった雪のおかげで、曙光は明るさを増していた。
「………」
結局あの後ロイはどうしたかといえば、コートを羽織って少年の枕辺に椅子を寄せ、そこで枕辺に突っ伏して眠ってしまった。そんな姿勢で寝入ってしまったから、体のあちこちが痛い。普段より早く目が覚めたのも、外が明るいだけでなく、その姿勢のせいもあっただろう。
しかしロイは両腕を枕辺の余った部分に曲げてつけて、昨晩より落ち着いた顔色で静かに寝ている少年の横顔を見た。その様子を見ているとわけもなく笑いがこぼれた。よかった、と思った。
昨夜見つけた缶詰はもらいもので、まだ後五つほど他のスープが残っているはずだった。顔も思い浮かべられない誰かに、ロイは現金にも感謝を捧げた。
詰め合わせだったので昨夜のコーンスープと同じものはないが、ポタージュあたりならいいだろうか。そんなことを考えながらキッチンでがたがたしていたら、寝室からがたりと音がした。
「…?」
起きたのだろうか、とロイは音源へ足を向けた。
目覚めて最初、まだ夢でも見ているのではないかと思った。
昨日、雪の中で目を閉じたときは、このまま死んでしまうかと思った。それは甘美な誘惑で、死ねばいなくなった人と同じ場所に行けるのに、と思っていた。