粉雪
だが誰かが立ち止まって、自分を雪の中から助け起こした。眠りの傍ら、見知らぬ、夜の色彩を持った男が世話してくれていた気がするのだが、あれは何の願望だったのか。こうして体調が戻ってみれば、自分の甘さに笑いがこみ上げる。
誰かが助けてくれるわけなどない。自分のことなど…。
それなのに――。
「起きられたのか?」
昨日世話をしつけてくれた男が、寝室の入り口に立ち、笑うような表情を見せていた。手の先が濡れていて、何か水仕事をしていたのだろうかと思わせた。
「………」
夢かと思っていた男は、勿論夢などではなかった。
黒い髪に黒い瞳、自分とは正反対の色合いだ。若そうに見えるが、落ち着いた態度からすると、見た目ほど若くはないのかもしれない。
ベッドからまさに足を下ろそうとしていた少年のそばまで、男は歩み寄ってきた。
「おはよう」
「………」
「…困ったな」
何も答えない少年に、男は真実困ったような顔をした。その何気ない台詞に、びく、と少年の肩が跳ねる。どこか怯えたような仕種であったことに男は首を傾げたが、気にせず続けた。
「…口が利けないか?よければ、名前くらいは聞きたかったんだが…」
「……ぇ…?」
少年は驚いたように目を大きく見開き、小さな声を上げた。それにロイは目を細め、だってだな、と付け加えた。
「名前がわからないと、話し辛いだろう?」
おい、とか、おまえ、とか呼ぶわけにも行かないだろうし、と楽しげに言った男を、少年の金色の目がまじまじと見つめる。
「…そんなに見つめないでくれ。照れてしまうだろう」
おどけたような男の言葉に、少年は口を…開いては閉じた。名を告げることに何がしかのためらいがあるのかもしれない。
困ったな、とロイは内心もう一度つぶやいた。
彼の銘なら知らないこともない。だが、この、どこか怯えたような少年に対して、あの銘を知っているのだと告げるのは何かはばかられるものがあった。だから、出来れば名前を教えてくれないかと思ったのだが…。
「………あんたの、名前…教えて、くれたら」
と、逡巡していたロイの耳に、小さな声が届いた。それは幾らか震えているように思えたが、彼からはっきりした言葉が聞こえたことにロイは目を瞠り、そして微笑んだ。素直に嬉しかった。
「――ロイ。ロイだ」
あえてファーストネームしか告げなかったのは、自分の素性を最低限隠したかったのもあるが、単純にその名前を読んで欲しかったせいもあっただろう。
果たして、目の前の少年はぱちりと瞬きしたあと、恐る恐るといった様子で「ロイ」と小さく口にした。ロイはその呼びかけに軽く目を瞠った後、笑って頷いた。朝からいい気分だった。
やがて、君は、と再びの問いに対して、ようやく少年は告げた。短いものではあったが。
「…エド」
「エド?」
鋼の錬金術師を誰かが名で呼んでいる場には遭遇したことがなかったので、それが本当に本名かどうかはわからないが、ロイは信じることにした。
こくりと頷いた金髪の少年は、とても深く傷ついているように見えて、…それは思わず手を差し伸べずにはいられない様子だった。
「そうか。エドか」
無意識に頭をくしゃりと撫でれば、一瞬身をこわばらせた後、深く息をついてアンドの様子を見せる。その態度ひとつとっても、彼が今まで、いかに気を許せない場所にいたのか察するにはあまりあるものだった。恐らく頭に手を置かれるのは殴られるときだけなのだろう。強張りをロイはそのように理解した。これではまるで、虐待を受け続けた子供のような有様ではないか。
「…では、エド。芸がなくて申し訳ないんだが…、スープを温めた。食べられないか?」
「………」
少年は物言いたげにロイを見上げた後、困ったように眉根を寄せた。
「…どうした?」
「…。ロイ…は、どうして…」
言いづらそうな少年の表情をしばし見ていたロイだったが、その言わんとするところを察して破願した。
「わっ…」
わしゃわしゃと金髪をかき回して、ロイは言う。
「遠慮するんじゃない、こんなことで。まあ、悪いと思うなら元気になることだ」
「…でも、…おれ…」
ロイは、はて、と困ったように眉尻を下げた。そうして膝をついて、下から少年の顔を覗き込む。
「…おまえが逃げるんじゃないかと思って言わなかったんだが…」
「……?」
「――鋼の錬金術。だな…?」
「…っ!」
「逃げるな!」
ベッドから逃げ出そうとした少年の肩をすかさず捕まえて、ロイは低く告げた。顔からは笑みを消して。だが、哀れむような瞳の色はそのままだった。それは意図してのことではなかったが。
「――誰にも言ってはいない。君がここにいることは、誰も知らない。…私は君を知っている。だが、だからといって、どうしようとも思わない。…今おまえは弱っている。弱っている子供を差し出すほど私は人非人じゃないぞ」
しっかりと抱きとめて、噛んで含めるようにロイは言って聞かせた。暴れているのか震えているのか判じかねる様子だったが、ロイはとにかく離すことだけはしなかった。そうして繰り返し言い聞かせる、大丈夫だ、逃げるな、と。
「……大丈夫だから」
何が大丈夫なのか、そう聞かれたらきっとロイは答えられなかっただろう。
だが、それでもそう繰り返していた。
やがてエドが落ち着いたところで、ロイは、そっと身を離した。そうして、困ったように笑う。
「…スープが冷めてしまったな。もう一度暖めるよ」
そのどこか愛嬌のある笑みにつられて、ぎこちなくではあったけれど、エドも小さく笑った。
ずっと繰り返してくれた「大丈夫」の言葉が泣きそうなほど嬉しかった。
言葉もなくエドはスープを飲み、ロイは見るとなしに少年の体を目視した。
服を着替えさせた時、眉を顰めずにいられなかった。彼の体のあちこちには、昨日今日ついたのではない傷がたくさんあった。極めつけは右手と左足の機械鎧だろう。だが、それは別としても、尋常ではない傷がたくさん見て取れた。
どこでどうしてそれだけの傷を負ったかなど、わざわざ尋ねる必要はない。そんなことをせずとも、ロイはその理由を知っていた。
「……ゆき、…」
不意に食べる手を止め、エドは背後の窓を振り向いた。厚いカーテンはさすがに引いたが、薄手の内側のカーテンはまだ閉めてあった。だが、その向こうに降雪の気配を感じでもしたのだろうか。
ロイは言われて初めて外を仰ぎ見、そこにしんしんと静かに舞う白いものを見つける。確かに、夜が明けたというのに気温は上がっていなかった。
そういえば今日は休日ではない。
ちらりと、男は拾った少年を見た。
放っておいても、これは当たり前の弱い子供ではないのだから、自分で休み、動けるようになったらどこへなりとも帰るだろう。だが…。
決めた時にはもう動いていた。