粉雪
ぼんやりと外を向いているエドの傍らを足音立てずに通り過ぎ、枕辺の電話を取る。ものぐさというか、普段自分が一番いる可能性の高いところに電話を置いているのだ。家の中で寛ぐ時間はほとんどないに等しく、在宅時間のほぼ過半数は寝て過ごしているのが現状だった。それに、仕事柄緊急連絡も多く、結果として設置場所はそこに落ち着かざるをえなかったのだった。
「…ああ、マスタングだ。急用が出来たので今日は休むと。…ああ、そうだ、中尉が来たらそう伝えてくれ。自宅にはいるから何かあったら連絡を。よろしく頼む」
喋りだしたところで、エドがはじかれたようにこちらを向いた。
食い入るように大きな金色の目がこちらを見つめていたが、ロイは特に何も言わずに用事だけを済ませた。
――休暇取得の。
こんな無茶苦茶な休みの取り方は今までしたことがなかった。こう見えても実はそれなりに軍高官の身の上、後で副官にきつく咎められるかもしれない。
謹厳な己の副官の凛とした姿を思い浮かべ、ロイは微かに笑った。だが、幸いにしてここしばらくは率先して当たるべき大きな事件はない。今日の休みくらいは許されてしかるべきだ。
「――さて、これで安心だ」
「え……」
スプーンを握ったまま、エドはぽかんとロイを見つめている。そうしていると、なんでもない子供のように見えてロイはおかしかった。可愛いな、なんて思ってしまって。だから笑っていたのは無意識だった。
「何か食べたいものはないか」
腰を屈め、わしゃ、と金髪を撫でた後、ロイは親しげにそう聞いた。
「食べたい…もの…?」
「ああ。…といってもたいしたものは用意できないと思うが――」
何か出来合いの、と続けようとした言葉は、何か決意を秘めたような瞳に遮られた。
「シチュー」
「え…」
「肉団子入ってるの…」
不安そうに眉根が寄せられた。そんな素朴なものを求められると思っていなかったロイは、呆気にとられてしまう。
「………うそ…、なんでもい、」
「いや、違う、驚いただけだ。わかった、シチューだな、肉団子入りの」
段々俯いてしまったエドに、我に返ってロイは繰り返す。少し慌てていた。
「……」
本当に?とでも言いたそうに少年が目を瞬かせた。
本当だとも、と答えるようにロイは頷いた。
「シチュー、シチューか…うん、…肉団子、だな。…挽肉?だな…何の?」
頷きながらぶつぶつ呟いて、最後は問いかけになった。エドはぱちりと目を瞬かせた後、チキン、と答えた。
「他は?芋か…あとなんだ、ニンジンと玉葱と?そんなものか…」
「…きのこ」
「ん?ああ、キノコな、キノコ…マッシュルームとか。か…」
「とうもろこし」
「ああ、ともろこし、わかった」
食材を一つ一つ覚えようと、ロイは口中に繰り返した。鳥挽肉の団子にジャガイモにニンジンに玉葱にキノコにとうもろこしに…、
「ああ、そうか。牛乳だな」
そうだ、と付け足したら、初めてエドが嫌そうな顔をした。あまりに子供っぽくてロイは笑ってしまった。どうやらこの少年は牛乳は嫌いらしい。
士官学校では野戦を想定した上での屋外訓練もあり、当然その中では炊事も行われたわけで、つまりロイもそれに参加したことはあるので、まったく何も出来ないわけではない。だが、だからといって人に振舞える「料理」が出来るかというとまた別問題だった。
そこで彼は、手っ取り早い解決策を選んだ。
独身寮が近くにあるせいか、自宅から程近い場所に、安くてうまい家庭料理の店、というなんとも心憎い食堂がある。ロイだけでなく、多くの独身男性がその店のご厄介になっているわけだが、長らく通っているロイはお得意さまで、少々の融通を利かせてもらって、鍋に料理を分けてもらってくることがある。本来はテイクアウトなどは行っていないのだが、彼の官職とそれ以上に人好きのする容姿に女将さんが特別待遇をしてくれているのだ。
ロイは、迷うことなく女将に相談した。最初は電話で。
雪道で遭難者を拾って保護している、どうやらシチューが食べたいらしい、と。
女将は快くこの相談に乗り、結果、家庭のにおい漂うシチューを鍋に分けてくれた(勿論料金は支払うが、品書きに載っていないものは実費だったりする)。それからあれもこれも、とパンやらチーズやら、ハムやらなにやらを持たせてくれた。ピクルスまであった。
後はエッグノグの作り方を懇切丁寧に教え込まれた。それから、家にあるのだろうから、とホットワインについても。シナモンが必要だねえと瓶ごと渡されたのには驚いたものである。
とにもかくにも、心づいた女将の手回しで料理を手に入れ、ロイは一人で寝せているエドのもとに飛ぶように帰った。消えていたらどうしようとは一度も思わなかったのだが、ドアを開け、部屋に一歩入る瞬間に思った。どこかに逃げていたらどうしようかと。
だが、それは杞憂に終わった。
「……」
少年は、ロイのベッドの上で半身を起こし、窓の外を見ていた。
今の空と大地の白さに負けぬほど、その肌色は青白かった。
暖まるからとホットワインを差し出せば、なんだかわからなかったようで、少年は鼻をひくひくさせた。犬みたいだなとロイは少し笑う。
「…赤い」
カップを受けとったエドが小さく呟いた。
赤ワインだからねと答えたロイは、彼にとって「赤」が持つ意味など何もわかっていなかった。
張り切って休暇をとったものの、取り立ててロイも何かをするわけではなかった。エドはそう口数の多い方ではなく、ロイとしても、気になっていることのどれも結局尋ねることは出来なかった。
ただ雪の降る外を思いながら、横たわるエドの傍ら、椅子やら何やらを引っ張ってきてぼんやりしていた。膝の上では、先ほどから開かれたままの本が一枚としてめくられないままになっている。
二人ですごす部屋の中ではストーブの音だけがしている。ぼんやりと窓の外は明るかったが、同時にたとえようもなく寒かった。
「…昼には何か食べられそうなものは?」
まだシチューも残っているが、と付け加えながらロイは一応尋ねてみた。すると、もぞりとベッドの中で寝返りを打って、少年がこちらを見上げてきた。
「…残りでいい」
「…そうか」
会話はそこで終わってしまうかのように思えたが、エドはしばしじっとロイを見つめていたので、ロイから「何か?」と切り出す。
「…雪が、やむまで…」
「…?」
「雪がやむまでで、いいから…」
「……何が?」
ロイは腰を上げて、ベッドの傍らに膝をつき、少年の顔を覗き込んだ。
すると、至近距離、彼は切なくなるほど綺麗な顔をして笑って見せた。
「…雪がやんだら、…オレのこと、放り出して。…でも、やむまでは、ここにいさせてほしいんだ」
我が身を振り返ることのない発言に、ロイは眉を顰めた。
「だめかな…」
エドがどうして衰弱していたのか、雪の中で倒れていたのか。それはわからないし、そして彼自身にその理由を語る気はないようだった。どころか、むしろ、係わり合いになったロイの身を案じるような言葉をかける。
ロイは、毛布の外に出ていた少年の手を握って、答えた。
「…だめだ」